忠次旅日記
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『忠次旅日記』(ちゅうじたびにっき)は、1927年昭和2年)に日活大将軍撮影所で製作された日本映画である。第1部「甲州殺陣篇」、第2部「信州血笑篇」、第3部「御用篇」の三部からなる。監督は伊藤大輔、主演は大河内傳次郎。「忠次三部作」「忠次三部曲」と総称される。長らくフィルムが紛失し「幻の映画」となっていたが、1991年に約89分のフィルムが発見された。
概要[ソースを編集]

「国定忠次はより怖い。にっこり笑って人を斬る」と歌われた幕末上州(現群馬県)の侠客国定忠次は、悪代官をこらしめ農民を救う英雄として講談浪曲大衆演劇で人気を集め、大正時代には澤田正二郎演じる新国劇の舞台や尾上松之助主演による映画化が行われていた。

1926年(大正15年)に日活に入社した伊藤大輔は、同年の時代劇映画『長恨』でコンビを組んだ第二新国劇出身の若手俳優、大河内傳次郎を使って従来の颯爽とした英雄忠次像を廃し、子分に裏切られて破滅していく人間くさい忠次像を映画化しようとした。だが、経営陣は、松之助が演じた従来の忠次像にこだわり許可しなかったので、止む無く伊藤は第1部「甲州殺陣篇」でヒーローとしての忠次を描き、続く第2部、第3部で本来のテーマを表現した。伊藤大輔はのちに「無頼漢の忠次とは何事だと横槍が出て、仕方なしに『血笑篇』と『御用篇』のテーマは残して、最初に『甲州殺陣篇』と言う無意味な立ち回りを撮ったんです。その立ち回りが当たったんで、松之助さんも病没したことではあるし、まあ続けてあともやれということで……そんな時代の産物でしたよ、あの忠次は」と回想している[1]

映画は同時代の観客や批評家から高く評価された。大掛かりな移動撮影、暗闇に浮かぶ御用提灯といった表現主義的な技法、大河内傳次郎ら役者陣の演技、激しい立ち回り、瑞々しいリリシズム、字幕の巧妙な使用などが、従来の時代劇にはない魅力として当時の映画批評で指摘されている[2]

作品は大ヒットし、芸術的にも高く評価され、昭和2年度のキネマ旬報ベストテンに第2部が第1位、第3部が第4位にランクインしている。監督・伊藤大輔、主演・大河内伝次郎、撮影・唐沢弘光のトリオは以後、『新版大岡政談』『興亡新撰組』『御誂次郎吉格子』などを手がけていく。
フィルムの発見と復元[ソースを編集]

『忠次旅日記』のオリジナルネガは紛失し、上映用のフィルムも1950年代頃には失われていた。伊藤大輔自身が、第1部の出来に不満があり、総集篇を作る際に第1部を採用していない。第2部と第3部のフィルムと脚本も散逸し、第3部の1分間の断片シーンが玩具フィルムとして残されているのみだった。しかし、1991年12月、広島県の民家の蔵から可燃性の35oフィルムが発見された。フィルムは広島市映像文化ライブラリーを経て、東京国立近代美術館フィルムセンターで復元作業が行われた[3]。フィルムは第2部の一部と第3部の大部分、計89分であることが分かった(欠落部分を埋めるために『國定忠治 信州子守唄』も挿入されていた[4])。1992年10月10日、11日、同センターで復元版が公開され約3000人が入場した。2011年7月にはフィルムセンターが着色及びデジタルリマスタリング化を行った106分の「デジタル復元・再染色版」が上映された(24コマ上映のため本来の上映時間よりも長くなっている[5])。9月には衛星劇場で放送された。その後、第1部の冒頭1分も発見されている。
ランキング[ソースを編集]

1959年:「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」(キネマ旬報社発表)第1位

1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)

第9位(『信州血笑篇』)

第17位(『御用篇』)


1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第42位(サイレント映画としては小津安二郎の『大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(31位)に次いで高い順位である)

1995年:「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネ旬発表)第14位

1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第82位

第一部「甲州殺陣篇」[ソースを編集]

忠次旅日記
第一部 甲州殺陣篇

監督伊藤大輔
脚本伊藤大輔
原作伊藤大輔
出演者大河内伝次郎


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