忠州市
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忠清北道 忠州市南漢江沿いの忠州比内遊歩道
位置

各種表記
ハングル:???
漢字:忠州市
片仮名転写:チュンジュ=シ
ローマ字転写 (RR):Chungju-si
統計(2023年
面積:983.7 km2
総人口:207,778[1]
男子人口:105,420 人
女子人口:102,358 人
行政
国: 大韓民国
上位自治体:忠清北道
下位行政区画:1邑12面12洞
行政区域分類コード:33020
忠州市の木:リンゴ
忠州市の花:キク
忠州市の鳥:オシドリ
自治体公式サイト: ⇒忠州市
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忠州市庁

忠州市(チュンジュし)は、大韓民国忠清北道の市。道庁所在地の清州市に続く道内第2の都市である。朝鮮王朝時代には忠清道の中心であった。忠清は忠州と清州を意味する。市のブランドイメージは「Good Chungju」で、Goodの部分はGreat Opportunity Open Developmentを意味する。
地理

忠清北道北部に位置し、南漢江の上流を占める。韓国有数の温泉地である水安堡温泉がある。リンゴの特産地。市の東部には1985年に完成した忠州ダムがあり、それによって出現した忠州湖がある。
歴史

高句麗の国原城があり、新羅時代の呼称である中原の名でも知られる。

550年 - 新羅、国原城を領有。

557年 - 国原を小京とする。

685年 - 中原小京を設置。

757年 - 中原京に改称。

940年 - 高麗、忠州府と改称。

983年 - 忠州牧に昇格。

995年 - 中原道設置。

1018年 - 忠州牧復活。

1254年 - 国原京に改称。

1395年 - 朝鮮王朝、忠清道を設置し、監営を忠州に置く。

1592年 - 文禄の役にて小西行長軍が朝鮮軍に大勝(弾琴台の戦い)。

1895年 - 八道制から二十三府制となったことにより、忠州府観察使が置かれる。忠州牧は忠州郡となる。

1896年 - 旧忠清道を南北に分割し、忠清北道観察使を忠州に置く。

1906年 - 金目面・法旺面が陰城郡に編入。

1908年 - 忠清北道観察使を清州に移す。

忠州市

1956年7月8日 - 忠州郡忠州邑が忠州市に昇格。[2]

1987年1月1日 - 中原郡?味面木伐里を編入[3]

1989年1月1日 - 中原郡利柳面万井里の一部が龍頭洞に編入。[4]

1995年

1月1日 - 忠州市・中原郡が合併し、改めて忠州市が発足。[5](13面)

3月2日 - 周徳面が周徳邑に昇格。(1邑12面)


1996年8月22日 - 薪尼面の一部が周徳邑に編入。(1邑12面)

2005年4月1日 - 上?面が水安堡面に改称。(1邑12面)

2012年1月1日 - 利柳面が大召院面に改称。[6](1邑12面)

2014年2月1日 - 可金面が中央塔面に改称。(1邑12面)

中原郡(忠州郡)

1906年 - 金目面・法旺面・川岐面・豆衣谷面・笙洞面・甘味谷面・居谷面[7]陰城郡に編入。

1914年4月1日 - 郡面併合により、忠州郡のうち、甘勿面・栗池面が槐山郡に、蘇坡面・沙伊面が陰城郡に、徳山面が堤川郡にそれぞれ編入。忠州郡に以下の面が成立。(13面)

邑内面・周徳面・?味面・利柳面・薪尼面・老隠面・仰城面・可金面・金加面・東良面・山尺面・厳政面・蘇台面


1917年10月1日 - 邑内面が忠州面に改称。(13面)

1931年4月1日 - 忠州面が忠州邑に昇格し日本式地名を付与。[8](1邑12面)

1956年7月8日

忠州邑が忠州市に昇格。[2]

忠州郡が中原郡に改称。(12面)


1963年1月1日 - 上?面を槐山郡から移管。[9](13面)

1973年7月1日(13面)[10]

利柳面河文里が槐山郡仏頂面に編入。

薪尼面広越里無愁村が陰城郡陰城邑に編入。


1987年1月1日(13面)[3]

?味面木伐里が忠州市に編入。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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