応神天皇
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応神天皇
応神天皇と近侍の武内宿禰
江戸時代、誉田八幡宮
第15代天皇
在位期間
応神天皇元年(390年?)1月1日 - 同41年(430年?)2月15日(日本書紀
壬戌年(362年?) - 甲午年(394年?)(古事記
時代伝承の時代古墳時代
摂政神功皇后
先代仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
次代仁徳天皇

誕生宇瀰
崩御明宮(一説に大隅宮)
陵所惠我藻伏崗陵
漢風諡号応神天皇
和風諡号誉田天皇
別称誉田別尊
誉田別天皇
胎中天皇
品陀和気命
大鞆和気命
品太天皇
凡牟都和希王
父親仲哀天皇
母親神功皇后開化天皇の5世孫)
皇后仲姫命景行天皇の曾孫)
子女仁徳天皇
額田大中彦皇子
大山守皇子
菟道稚郎子皇子
八田皇女
雌鳥皇女
稚野毛二派皇子継体天皇の高祖父)
隼総別皇子
草香幡梭皇女他多数
皇居不明(『日本書紀』)
軽島豊明宮(『古事記』)
難波大隅宮(行宮)
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応神天皇(おうじんてんのう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:應神󠄀天皇、仲哀天皇9年12月14日 - 394年?[1][2]〈応神天皇41年2月15日〉)は、第15代天皇。『日本書紀』での名は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)。記紀によると渡来人を用いて国家を発展させたとされ、中世以降は軍神八幡神としても信奉された。実在したとすれば4世紀後半?5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。
略歴

仲哀天皇の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に?坂皇子忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは仲哀が崩御して十月十日後であるため、仲哀天皇の実子ではないことを示唆しているとする異説もある。応神天皇は胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。摂政となった母により、神功皇后摂政3年に立太子。母が崩御した翌年に即位。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君阿直岐王仁阿知使主といった人物がおり、阿知使主は東漢氏の、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語千字文、すなわち儒教漢字が伝わったという[3]。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは南朝宋)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩御したとされる。


誉田天皇(ほむたのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風
諡号

誉田別尊(ほむたわけのみこと)- 『日本書紀』

胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)- 『日本書紀』

品陀和氣命(ほむだわけのみこと) - 『古事記

大鞆和気命(おおともわけのみこと) - 『古事記

品太天皇(ほむだのすめらみこと)- 『播磨国風土記

凡牟都和希王(ほむつわけのみこ/ほむたわけのみこ)- 『上宮記』逸文。

漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
后妃と行幸

即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。
宇治行幸

即位6年2月、近江国に行幸し、途中の菟道野(宇治)で歌を詠んだという。

千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ

古事記』によると菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、少女も父に事情を報告した。翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄の皇后となる八田皇女である。
吉野行幸

即位19年10月、吉野へ行幸。国樔人は白樫で横臼を作って大御酒を醸した。その大御酒をたてまつる時、口鼓を撃って演じ歌を詠んだ。

橿の生に 横臼を作り 横臼に醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父

吉野は山深い土地であり、日本書紀が書かれた奈良時代初頭でも吉野の人々が来朝することはまれであった。しかし時折、名産品を献上するときがあり、国主らはその際にこの歌を詠んだという。
吉備行幸

即位22年春3月5日、難波の大隅宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ。

淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの

秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。また織部(はとりべ)が兄媛に与えられた。『古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、兄媛は黒日売という名で登場する。御友別にあたる人物は登場せず、黒日売が自ら大御飯(おおみけ)を献上する。
行政
国土開発と渡来人

即位3年10月、「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」

即位5年8月、「諸国に令して、海人及び山守を定む」

即位7年9月、「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り」


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