応永(おうえい、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:應永)は、日本の元号の1つ。明徳の後、正長の前。1394年から1428年までの期間を指す。この時代の天皇は後小松天皇、称光天皇。室町幕府将軍は足利義満、足利義持、足利義量。日本の元号の中では、昭和、明治に次いで3番目の長さ(35年)であり、一世一元の制導入以前では最長である。また、応永10年から22年までの約10年間は戦乱などが途絶え「応永の平和」と言われる。 『唐会要』巻67 時の将軍足利義満は若い頃から明へ深く憧れており、「明徳」からの改元の議の際に明の太祖洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。そこで、東坊城秀長は「洪徳」、「洪業」、「洪化」の3案を義満に提示したところ、義満は「洪徳」を選定した。 しかし、「洪徳」は以下の理由で公家たちが反発したため実現せず、結局「応永」に決定した。 応永が35年間という長さになった原因には、以下の説がある。 また、干支で甲子・辛酉に当たる年には改元を行う慣例があったが、応永年間には該当する年がなかった。
改元
明徳5年7月5日(ユリウス暦1394年8月2日) 疫病(疱瘡)の流行により改元
応永35年4月27日(ユリウス暦1428年6月10日) 正長に改元
出典
逸話
「洪」の字は洪水につながる。
これまで永徳、至徳、明徳と「徳」の字がつく元号が連続しており、3回連続「治」のつく元号(天治、大治、永治)を用いた崇徳天皇や、5回連続「元」のつく元号(元応、元亨、元徳、元弘、延元)を用いた後醍醐天皇の例と同じになり不吉である。
この改元で義満は機嫌を損ねて、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。
元年に将軍に就任した義満の子の義持が応永に愛着を持っていたので、1408年(応永15年:義満死去に伴う)と1413年(応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止した。実際、義持の死の直後に改元された。
応永期におきた出来事
元年12月17日(1394年) - 足利義満征夷大将軍辞官、足利義持征夷大将軍宣下。
4年4月16日(1397年) - 鹿苑寺(金閣寺)の上棟式
6年10月28日(1399年) - 応永の乱が始まる。大内義弘が足利義満に叛し堺で挙兵。
8年5月13日(1401年) - 足利義満が遣明使を派遣。日明貿易への第一歩。
19年8月29日(1412年) - 後小松天皇が称光天皇に譲位。称光天皇践祚。
21年12月19日(1414年) - 称光天皇即位
23年10月2日(1416年) - 上杉禅秀の乱が始まる。
26年6月26日(1419年) - 応永の外寇(李氏朝鮮の対馬侵攻)
27年?28年(1420年?1421年) - 応永の飢饉
28年4月4日(1421年) - 伊豆大島が噴火。
出生
元年1月1日(1394年2月1日) - 一休宗純、禅僧(文明13年死去)
元年6月13日(1394年7月11日) - 足利義教、室町幕府6代将軍(嘉吉元年死去)
5年(1398年) - 畠山持国、室町幕府管領(享徳4年死去)
5年(1398年) - 足利持氏、鎌倉公方(永享11年死去)
8年3月29日(1401年) - 称光天皇、101代天皇(正長元年崩御)
9年5月7日(1402年) - 一条兼良、歌人(文明13年死去)
11年5月29日(1404年7月6日) - 山名宗全(持豊)、武将(文明5年死去)