この項目では、地名の応昌について説明しています。その他の応昌については「応昌 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
応昌(おうしょう、モンゴル語: Ying?ang、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Yingch?ng)は、元代にダライ・ノール(現在の内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗に位置する)の南西に建設された都城。
コンギラト部族の遊牧地の一つで、全寧路が遊牧生活における冬営地の役割を担っていたのに対し、応昌路は夏営地として用いられていた。 至元7年(1270年)、コンギラト部はセチェン・カアン(世祖クビライ)に「上都東北300里のダライ・ノール湖畔に、部族の夏営地がありますが、ここに都城を建築してもよいでしょうか」と申請し、セチェン・カアンはこれを許可した。 完成した都城は「応昌府」と名付けられ、至元22年(1285年)には改めて「応昌路」とされた。現在の応昌城址は南北の長さが約650m、東西の長さが約600mで、これは同時期に建設された安西王府や上都内城と同じ規格である[1]。 至正28年閏7月28日(西暦では1368年9月10日)、明軍が大都に迫ってきたため、ウカアト・カアンは大都を捨てて北走し、上都を経て応昌まで逃れた。応昌でウカアト・カアンは崩御し、その子のアユルシリダラが即位したが、洪武3年(1370年)には李文忠率いる遠征軍によって応昌もまたすぐに陥落した。この時、アユルシリダラの子のマイダリ・バラが捕虜となっている。 明朝は応昌府に応昌衛を設置したが、長続きせずすぐに廃れた。 2001年、「応昌路故城遺址」は第五回指定の中華人民共和国全国重点文物保護単位に登録されている。
歴史
大元ウルスの時代
北元時代
現代
関連項目
大都
上都
脚注^ 杉山2004,150-151頁
参考文献
岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
外部リンク
⇒元朝最後的都城:応昌城
表
話
編
歴
元朝の行政区分
腹裏
大都路
上都路
興和路
保定路
河間路
永平路
徳寧路
浄州路
集寧路
応昌路
全寧路
寧昌路
泰寧路
真定路
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広平路
彰徳路
大名路
懐慶路
衛輝路
東平路
東昌路
済寧路
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濮州
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泰安州
徳州
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和寧路
称海宣慰司
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謙謙州
河南江北道
?梁路