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志賀
千葉市海洋公民館(元・海防艦「志賀」)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
志賀(しが)は、日本海軍の海防艦。鵜来型海防艦の21番艦。艦名は福岡県にある志賀島にちなむ。太平洋戦争を生き延びて戦後は掃海に従事し運輸省の定点観測船、その後海上保安庁の巡視船となり、さらに千葉県千葉市の海洋公民館となった。 マル戦計画
艦歴
起工-竣工-訓練
28日、志賀は佐世保を出港し、29日に佐伯に到着。4月6日 大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄出撃に先立ち、慣熟訓練を兼ねて前路掃討を実施。豊後水道南部で敵潜水艦らしきものを捕捉し、爆雷投射により零式水上偵察機と共同して攻撃。その結果、気泡と油膜を確認したため敵潜水艦を撃沈したと判断した。7日、呉に到着し、12日に出港。13日、舞鶴に到着。22日に出港し七尾へ移動。以降七尾を拠点に訓練に従事。5月5日、舞鶴鎮守府部隊第五十一戦隊に編入された。13日、海上護衛総司令部第一護衛艦隊第二十一海防隊に編入された。 1945年(昭和20年)5月16日、志賀は七尾を出港し、舞鶴に移動。舞鶴海軍工廠で機銃増強工事を受ける。改装完了後出港し、27日に鎮海に到着。以降的山浦を拠点に対馬海峡の対潜哨戒に従事。7月10日、第二十一海防隊は連合艦隊第七艦隊に編入。31日、志賀は壱岐島半城浦で停泊中に空襲を受けたため対空戦闘を行い、P-51 マスタングを2機撃墜したとされる。 8月15日の終戦時は浅海湾に所在。統営、的山浦を経由し佐世保へ回航された。9月15日、第二十一海防隊は佐世保鎮守府部隊に編入された。 海軍省の廃止に伴い1945年(昭和20年)11月30日除籍。 1945年(昭和20年)12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の掃海艦に定められる。 8月1日、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められ、同時に特別保管艦に指定される。9月26日、特別輸送艦の定めを解かれた。 1946年(昭和21年)11月1日、志賀は三菱重工業横浜造船所に入渠し改装工事に着手した。改装内容は船橋を両舷まで拡幅。船体は長船首楼型船形とし、士官用室、応接室等を増設。船楼甲板上にはボート甲板が追加され、後部には兵員室等を設け、ヨット式船形になる。 12月31日、志賀は運輸省へ移管され、1947年(昭和22年)4月8日より米陸軍連絡船として博多-釜山間に就航した。運航は運輸省鉄道総局門司鉄道局であった。12月31日、航路廃止に伴い解役。1949年(昭和24年)1月15日、運輸省横須賀管船部保管船となる。 1950年(昭和25年)12月、中央気象台の定点観測船となり志賀丸(しがまる)と命名され、定点観測に従事した。 1954年(昭和29年)1月1日、海上保安庁に編入され巡視船こじま (PL-106)となり、第三管区海上保安部横浜海上保安部に配属。
海軍艦艇
掃海艦
連絡船-定点観測船-巡視船
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