「磯城皇子」とは別人です。
志貴皇子
(施基親王)
時代飛鳥時代 - 奈良時代初期
生誕668年?
薨去霊亀2年8月11日(716年9月1日)
別名芝基皇子、施基皇子、志紀皇子、施基親王
尊号春日宮御宇天皇
田原天皇
位階二品
父母父:天智天皇、母:越道君伊羅都売
志貴皇子(しきのみこ、668年? - 716年9月1日〈霊亀2年8月11日〉)は、日本の飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子(親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇第7皇子[1]。位階は二品。
皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。
今日の皇室は、志貴皇子の男系子孫にあたる。 天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、?野讚良皇后(後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子)とともに、皇位継承の争いを起こすことのないよう結束を誓う(吉野の盟約)[2]。天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定により吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受けるが、志貴皇子のみ叙位を受けた記録がない[3]。朱鳥元年(686年)封戸200戸を与えられる。 持統朝では、持統天皇3年(689年)撰善言司(良い説話などを撰び集める役)に任ぜられた程度で、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況にあったか[4]。 文武朝に入ると、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて四品に叙せられる。大宝3年(703年)持統天皇の葬儀では造御竃長官を務め、慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御にあたっては殯宮に供奉している[5]。 同年7月に元明天皇が即位し、再び天皇の兄弟となる。元明朝では、和銅元年(708年)三品、和銅8年(715年)二品と昇進を果たしている。元正朝の霊亀2年(716年)8月11日薨去。 壬申の乱を経て、皇統が傍系・天武天皇系に移ったことから、天智天皇系皇族であった自身は皇位継承とは無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた人生だった。 薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)、第6男子の白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、天皇の実父として春日宮御宇天皇の追尊を受けた。御陵所の田原西陵[6](奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。 清澄で自然鑑賞に優れた歌人として『万葉集』に6首の和歌作品を残している。いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。 『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも5首が採録されている[7]。 『六国史』による。
経歴
人物
石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
神なびの 石瀬の杜(もり)の ほととぎす 毛無(ならし)の岡に いつか来鳴かむ
大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも
采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
官歴春日宮天皇陵
朱鳥元年(686年) 8月15日:加封200戸
持統天皇3年(689年) 6月2日:撰善言司
時期不詳:四品
大宝3年(703年) 9月3日:賜近江国鉄穴。10月9日:造御竃長官(持統天皇葬儀)
大宝4年(704年) 正月11日:益封100戸
和銅元年(708年) 正月11日:三品
和銅7年(714年) 正月3日:益封200戸
和銅8年(715年) 正月10日:二品
宝亀元年(770年) 11月6日:御春日宮天皇を追号
系譜
父:天智天皇[8]
母:越道君伊羅都売[8](こしのみちのきみいらつめ)
妃:託基皇女(? - 751年) - 天武天皇皇女
男子:春日王[9](? - 745年) - 子孫は春原氏
男子:湯原王[10] - 子孫は美海氏
贈皇太后:紀橡姫 - 紀諸人女
女子:難波女王[11](後に内親王)(? - 773年)
男子:白壁王(光仁天皇)[12](709年 - 782年)
生母不詳の子女
男子:榎井王[13] - 子孫は長井氏・岡原氏
男子:壱志王[9]
女子:海上女王[14]
女子:衣縫女王(後に内親王)[15](? - 772年)
女子:坂合部女王(後に内親王)[16](? - 778年) - 文室大市室か