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出典検索?: "志田宗大"
志田 宗大2011年10月8日
基本情報
国籍 日本
出身地岩手県大船渡市赤崎町[1]
生年月日 (1979-06-16) 1979年6月16日(44歳)
身長
体重178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り2001年 ドラフト8巡目
初出場2002年5月25日
最終出場2010年10月10日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
仙台育英学園高等学校
青山学院大学
ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ (2002 - 2010)
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志田 宗大(しだ むねひろ、1979年6月16日 - )は、岩手県大船渡市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。現在は、読売ジャイアンツのスコアラー。 仙台育英高校では1年から3年連続で夏の甲子園に内野手で出場[2]。青山学院大学時代は後に一緒にヤクルト入りする石川雅規と同期で、2年からは外野で4年時はセンターを守っていた。2年の大学選手権ではレギュラーで優勝。4年生の時には、翌年読売ジャイアンツに自由枠で入団することになる木佐貫洋から本塁打を放つ活躍を見せている。東都大学リーグ通算95試合出場、326打数91安打、打率.279、4本塁打、34打点。ベストナイン2回受賞。仙台育英高と青山学院大ではいずれも主将を務めていた[1]。 ドラフト8巡目と下位指名で、他球団のスカウトにも名前を知られていなかった存在だった。 2002年、ルーキーながら40試合に出場し、プロ初本塁打も打った。 2003年には二軍でチームトップの打率.303、11盗塁を記録し、一軍は8試合の出場にとどまったものの、3割を打った。一軍で打った6安打はすべて左投手からのものだった。 2004年、毎年若手リードオフマンの台頭を課題としてあげていた若松勉監督に抜擢され、一軍に定着。自己最多の91試合に出場し、打率.251、3本塁打、4盗塁とまずまずの結果を残した。稲葉篤紀が不調の際には1番も打った。ただしシーズン当初は右投手に滅法弱く、主に真中満選手との併用となり、左投手の時に先発出場した。 2005年、日本ハムへFA移籍した稲葉の穴を埋める為、青木宣親とのポジション争いになるように思われたが、志田自身の怪我により開幕1軍入りは果たせず、その結果青木宣親が台頭した為、志田は前年に比べ出場機会を大幅に減らしてしまった。しかし二軍では打率.313、9盗塁と打撃でアピールした。 2006年も二軍で打率.289、7盗塁の好成績を残したが、一軍ではやはり守備固め・代走要員に留まった。 2007年は一軍キャンプスタートとなった。オープン戦では三塁打も記録し、幸先の良いスタートを切った。初めてほぼ一年間一軍ベンチ入りし、59試合に出場したが、主に代走・守備固めでの出場のみで、打席はわずか14打席、プロ入り後初めて安打0本のシーズンとなってしまった。 2008年は7月に一軍に昇格し、ファームで残した高打率を評価され主に代打で起用されるようになった。オリンピック期間中は青木宣親の代役としてセンターのスタメンで起用された。 2009年はシーズン初打席で内海哲也から2004年以来となる本塁打を記録しお立ち台に上がる。クライマックスシリーズ1stステージ第3戦では、8回表1死満塁のチャンスで代打に起用されたが併殺打に倒れる。 2010年は一軍昇格がなく、9月26日、シーズン限りでの現役引退を発表[3]。10月10日のシーズン最終戦の対広島東洋カープ24回戦(神宮球場)で同じく引退を発表したユウキと共に引退試合が行われた。自身は8回裏1死から飯原誉士の代打で現役最終打席に立ち、梅津智弘から三ゴロに倒れた。9回表はライトを守り、現役生活を終えた[4]。 2015年第1回WBSC世界野球プレミア12で、日本代表チーム侍ジャパンのスコアラーを務める。 2016年侍ジャパン強化試合、対チャイニーズタイペイ戦でスコアラーを務める。同年11月の強化試合、対メキシコ、オランダ戦でスコアラーを務める。 2017年第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、スコアラーを務める[6]。 同年11月の第1回アジアプロ野球チャンピオンシップでもスコアラーを務めた。 2018年からは読売ジャイアンツのスコアラーに移籍[7]。 走攻守にバランスが取れた外野手[8]。現役時代は主に代打や守備固めなどバイプレーヤーとして活躍した[9][10]。 データ分析能力に定評があり、日本代表スコアラー時代は、第4回WBC日本代表の監督を務めた小久保裕紀(大学時代の先輩)や後任監督の稲葉篤紀(ヤクルト時代の先輩)から厚い信頼を得ている[11][9]。
来歴
プロ入り前
プロ入り後
引退後
選手としての特徴・人物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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