志村けん
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志村けんの像
本名志村(しむら) 康徳(やすのり)
ニックネームけんちゃん
シムケン
ヤッサン
別名義志村 健
志村 ケン
生年月日1950年2月20日[1]
東京都北多摩郡東村山町(現・東村山市
没年月日 (2020-03-29) 2020年3月29日(70歳没)
東京都新宿区[2]
血液型A型
身長169 cm[1]
言語日本語
方言共通語
西関東方言多摩弁[注 1]
最終学歴東京都立久留米高等学校
師匠いかりや長介
出身東京都北多摩郡東村山町
コンビ名マックボンボン
カトケン
トリオ名加トちゃんケンちゃん光子ちゃん
グループ名ザ・ドリフターズ
芸風コント喜劇
事務所渡辺プロダクション

イザワオフィス
活動時期1972年 - 2020年
同期ビートたけし
笑福亭鶴瓶
過去の代表番組8時だョ!全員集合
ドリフ大爆笑
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ
志村けんのバカ殿様
志村けんのだいじょうぶだぁ
天才!志村どうぶつ園
となりのシムラ
作品曲「東村山音頭
映画「鉄道員
ドラマ「エール
他の活動タレント俳優
配偶者なし(生涯独身・未婚)
弟子えちご純平
山崎まさや
乾き亭げそ太郎
公式サイトイザワオフィス公式プロフィール
受賞歴
1999年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
2020年 浅草芸能大賞特別功労賞
2020年 東村山市名誉市民
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志村 けん(しむら けん、1950年昭和25年〉2月20日[1] - 2020年令和2年〉3月29日[3][4])は、日本コメディアン俳優ザ・ドリフターズのメンバー。東村山市名誉市民

1973年までの芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)[5]で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。

2020年3月、当時パンデミック初期であった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による肺炎で死去(後述)。生前は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに属し、死去したザ・ドリフターズのメンバーのいかりや長介仲本工事と同様、没後も籍を残している。
来歴

志村家の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。父は小学校教諭で、2人の兄は大学を卒業して公務員になったが、自身は大学へ行かず異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父の名前から取ったものである[6]
小学校時代

変なことばかりやっており[注 2]、そのきっかけは小学校1年の運動会でウンコをもらしたことで、そのイメージを消そうとおもしろいことをやり始めたという[7]。小学4年の頃は友人宅で落語のレコードを聴き、それを真似て学級会で酔っ払いのコント等を披露している[注 3]。人を笑わせることがとにかく好きだった[8]
中学校時代

父が厳格な人物で家庭に笑いがなかったため逆に笑いにすごく飢えていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来たという[注 4]。このためこの時間だけが志村が家でくつろげた時間であった[8]。志村によれば「お笑い番組を観ている時だけは、親父も声を出して笑っていた」と語っており[9]、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えられないと思っていたという[10]。校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており[注 5]、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと[要出典]。

この頃、自分の小遣いのために家の近所でバイトを経験しており自らを「コツコツ型で努力家」と評している[注 6]

東村山市立東村山第二中学校在学中は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの同級生の従兄とも親友だった[13][14]。ビートルズのファンで、その反骨精神に惹かれて影響(長髪と服装)を受けた[15]。このころからコメディアン以外の道はないと考えていたが、これには父親への反動もあった[8]
高校時代

両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校(現東久留米総合高校)に進学し、同高の第1期生となる。中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった[要出典]。同高では気になる女性と同じ時間に下校するため[16]サッカー部に所属し、ゴールキーパーとして活躍した[17]

中学に続いて高校でも文化祭でコントを披露[注 7]しており、腹巻きにステテコの姿で口のまわりを黒く塗って、てんぷくトリオの様な格好した写真が残っているという。応援団長として、応援にコント55号の動きを取り入れて「なんでそうなるの?」というギャグを取り入れたりもした。校内では仲の良い友達と化学の授業用の白衣で偉そうに先生みたいな顔をして歩いたりしていた。

高校2年生の時に日本武道館でのビートルズ来日公演を観に行っている[注 8]。高校は制服だったが、ビートルズの影響で長髪にタートルネックで学校に通っていた。

ゴルフ場のキャディや運送屋のアルバイトをしていた[注 9]

中学時代の話ではあるが1962年に父は帰宅中に[19]交通事故にあった[20]。数年後後遺症を発症し[19]、この頃には、父ボケており弟子入りに関して両親の反対は無かった[21]が、大学に行かなかったことに関しては怒っていた[19]
付き人から芸能界デビューを経てドリフターズ入り

1968年2月[22]、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。

由利徹コント55号、ドリフのいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校2年時に由利徹を訪ねて弟子入りを志願したが、大学に行ったら気が変わると言われ断られている、これがきっかけで高卒で芸能界に入ることを決心する[23])。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも門前払いされたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「ボーヤ(付き人)」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語っている。

1週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式にドリフのボーヤとして採用を告げられた志村は「じゃあ(高校)卒業したら来ます」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った[24]。この時の月給は4500円[23]。裸足で外出する[25]、いつも空腹でマヨネーズだけでご飯を食べる[26]、ドリフターズのメンバーが残したラーメンの汁をあてにしてライスだけ注文するといった生活を送っていた[27]
脱走

加藤茶の付き人となるも、1年余りで一度辞めて[注 10][注 11]バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家で居候し、加藤からいかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と帰参を認めてくれた[19]。その後、しばらく加藤の付き人として、加藤家に居候する。
マックボンボン結成、消滅

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー[注 12]。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。動いて笑わす野球のネタや、ゴールデンハーフのネタ、高齢者向けに雲の上団五郎一座のお富さん[注 13]などを前座で披露している[28]。年齢によって内容を変え何があっても客のせいにしないことをモットーとした[29]。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠スポンサーとなる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。


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