志摩町和具
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志摩町和具
町丁
和具中心街(2013年5月撮影)
志摩町和具の位置
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度15分31.6秒 東経136度48分54.0秒 / 北緯34.258778度 東経136.815000度 / 34.258778; 136.815000
日本
都道府県 三重県
市町村 志摩市
町名制定2004年(平成16年)10月1日
面積[WEB 1]
 ? 合計2.952601323 km2
人口(2019年(令和元年)7月31日現在)[WEB 2]
 ? 合計4,302人
 ? 密度1,500人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号517-0703[WEB 3]
市外局番0599(阿児MA[WEB 4]
ナンバープレート三重
※座標・標高は志摩市役所志摩支所付近

志摩町和具(しまちょうわぐ)は三重県志摩市地名

前島半島(さきしまはんとう)の中心的な集落で、同県鳥羽市菅島や相差(おうさつ)と並んで海女の多い地域として知られる[1]
地理

志摩市の南部、前島半島の中央に位置する[2]。北は英虞湾、南は熊野灘に面しており、両方にを持つ。また間崎島(まさきじま)や和具大島などの離島を有する。

英虞湾の:間崎島、座賀島、高崎島、小高崎島、大高崎島、埋葬地島、すだれ島、花川島、花川北島、めど島、ただこ島、宮ヶ島、あじの島、黒部島[3]

熊野灘の島:大島、鳴神、幣ノ島、神ノ島

河川:江田川(準用河川)、奥谷川、岡崎川[4]

中心集落は和具漁港の北側にあり、住宅商店が密集する[4]。宅地の平均敷地面積は129 m2であり、建ぺい率の規制はあるが、「建て詰まり」感がある[4]

東は志摩町布施田、西は志摩町越賀と接する。

志摩市の北隣の鳥羽市にも答志島に「和具」という集落があるため、区別するために「志摩の和具」・「崎島(先志摩、さきしま)の和具」と呼ぶこともある[5]
歴史

和具では小字百部及び石ヶで円墳が見つかっており、石室須恵器片が出土している[6]ことから、古くから人が居住し有力者がいたことが窺える。

文字による記録では「志摩国志摩郡和具郷御調 海藻六斤」や「志摩郡答志郡和具郷」と記された木簡平城宮跡から見つかっているが、「和具郷」が当地域を指すとする説と鳥羽市沖の答志島の和具であるとする説があり、はっきりしない[2]。当地域に関する記録であることがはっきりしているもので最古のものは、嘉元3年(1305年)の『摂ろく(竹冠に録)渡荘目録』に記されたもので、摂関家渡領・勧学院領であったという[2]

戦国時代には「志摩十三地頭」の一人、青山氏(和具氏とも称す)が勢力を伸ばし和具に居城を構えた。この城は「和具砦」と呼ばれ、50×40mの規模があり[6]、7代が拠った。青山氏の初代・青山小平太は暦応年間(1338年?1341年)に紀伊国から守護に招かれ[2]和具に来たという。子孫の青山豊前は永禄年間1558年?1570年)に九鬼嘉隆の家来となって九鬼姓を名乗り、著しい軍功をあげた。九鬼氏の家督争いで転封になった際は嘉隆の孫・久隆に従い摂津国三田藩(現兵庫県三田市)へ移った[2]1532年天文元年)頃、矢納村(和具の旧村名)から4戸の農民が生活困窮のために間崎島へ移住した[WEB 5]。こうした経緯から、間崎島は距離的には阿児町の方が近い[WEB 5]が、志摩町和具に属している。

江戸時代には一貫して和具村として英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。享保11年(1726年)の『村差出帳』では村高538.676石、延享3年(1746年)の記録では551石とある。主に漁業で生計を立てており、耕地稲作に不向きでサツマイモなどの畑作が中心であった。このサツマイモは英虞湾対岸の鵜方浜島農民と取り引きされ、みかんが和具にもたらされた[6]おりきの松公園

明治時代に入ると町村制施行により単独村制を敷き、1939年(昭和14年)に和具町に昇格、2度の大合併を経て現在に至る。大正時代に住民の生活水準が向上し、美珠通りに商店が建つようになった[7][8]1960年代頃より沼地や湿田を埋め立てて宅地造成が進み、遊水地が失われたことで昭和50年代(1975年 - 1984年)には年4 - 5回のペースで浸水被害が発生するようになった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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