志帥会
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「二階派」はこの項目へ転送されています。2009年まで存在した派閥またはグループについては「新しい波 (派閥)」をご覧ください。
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志帥会会長を務める二階俊博
砂防会館別館(千代田区平河町)。志帥会が入居する
略称(村上亀井派→
江藤・亀井派→
亀井派→
旧亀井派→
伊吹派)
→二階派
前身政策科学研究所(旧渡辺派)
設立1999年(平成11年)3月18日
設立者村上正邦
亀井静香
種類自由民主党の派閥
本部砂防会館
所在地東京都千代田区平河町
会員数42人(自由民主党所属国会議員
事務総長武田良太
会長二階俊博
関連組織近未来政治研究会森山派)
予算139,096,701円(2010年)[1]
収入(2021年)3億3599万円[2]
ウェブサイト志帥会 - ウェイバックマシン(2008年12月31日アーカイブ分)
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志帥会(しすいかい)は、自由民主党の派閥。通称は二階派。

派閥の名称は初代事務総長の平沼赳夫孟子の「志は気の帥なり」を由来として命名した[注 1]砂防会館に事務所を置く。
沿革
村上・亀井派時代村上正邦

1998年11月30日に政策科学研究所(中曽根派→渡辺派→旧渡辺派)から山崎拓グループが近未来政治研究会(山崎派)を結成して分離独立した。12月に同派は村上正邦が新会長に就任して村上派となったが、派閥の弱体化は避けられなかった。実質的な同派のオーナーであった中曽根康弘と領袖の村上は、一方で派内の路線対立により清和会(三塚派)から離脱していた亀井静香グループと合流し、1999年3月18日に志帥会を結成した。

旧渡辺派から山崎派が分離独立する際、旧渡辺派所属の参議院議員については、当時参院幹事長で「参議院の法王」とも呼ばれた村上がまとめあげていたため、山崎派への賛同者は少なかったが、衆議院議員は中堅・若手の大半が山崎派に移行したため、旧渡辺派側は長老・ベテラン議員が多く残り、一方の亀井グループ側は、所属衆議院議員の半数以上を経験不足の当選3回以下の若手が占めていた。このため、共に影響力を削がれた少数派閥として両派は思惑が一致し、双方の「対等合併」により志帥会は一気に衆参あわせて60人規模の大派閥となった。
発足当初の構成

村上派(34名)
中曽根康弘(衆議院)櫻内義雄(衆議院)村上正邦(参議院)石渡清元(参議院)稲垣実男(衆議院)
伊吹文明(衆議院)衛藤晟一(衆議院)江藤隆美(衆議院)越智伊平(衆議院)加藤紀文(参議院)
木部佳昭(衆議院)小山孝雄(参議院)阪上善秀(衆議院)佐藤孝行(衆議院)佐藤静雄(衆議院)
島村宜伸(衆議院)谷洋一(衆議院)中尾栄一(衆議院)中曽根弘文(参議院)中山正暉(衆議院)
西川公也(衆議院)能勢和子(衆議院)萩山教嚴(衆議院)原健三郎(衆議院)牧野隆守(衆議院)
松永光(衆議院)武藤嘉文(衆議院)柳本卓治(衆議院)矢野哲朗(参議院)与謝野馨(衆議院)
吉田六左ェ門(衆議院)依田智治(参議院)米田建三(衆議院)渡辺喜美(衆議院)
亀井グループ(11名)
亀井静香(衆議院)狩野安(参議院)河村建夫(衆議院)小林興起(衆議院)桜井新(衆議院)
中川昭一(衆議院)平沼赳夫(衆議院)古屋圭司(衆議院)松岡利勝(衆議院)矢上雅義(衆議院)
谷津義男(衆議院)
無派閥(14名)
愛知和男(衆議院)大野つや子(参議院)亀井郁夫(参議院)倉田寛之(参議院)栗原博久(衆議院)
小島敏男(衆議院)末広まきこ(参議院)中川義雄(参議院)仲道俊哉(参議院)日出英輔(参議院)
保坂三蔵(参議院)三浦一水(参議院)水野賢一(衆議院)

1999年3月18日、初代会長に村上が、会長代行に亀井がそれぞれ就任。
江藤・亀井派時代江藤隆美

1999年7月に村上が自民党の参議院議員会長に選出されたことを受けて派閥を離れ、亀井が後任会長の候補に挙がるが、旧渡辺派から加入した山中貞則中山正暉のような頑固者の重鎮が多く、ベテラン達を束ねる力がないと思った亀井は江藤隆美に会長を打診したが、「俺は金がない、だから引き受けられない」と断られ、亀井は「金は私が出します」と江藤を説得し、江藤が第二代会長に就任した。亀井は会長代行のまま実務を担当[3]する。2000年6月25日の第42回衆議院議員総選挙櫻内義雄原健三郎が引退し、前通産相の与謝野馨、政調会長代理の桜井新ら中軸メンバー、中尾栄一木部佳昭佐藤孝行松永光島村宜伸などの落選が相次ぎ、11人の大幅減となり、政調会長の亀井は「人数より中身が痛い」と漏らした[4]。選挙後の発足した第2次森内閣では亀井が政調会長に留任し、谷洋一農林水産大臣平沼赳夫が通商産業大臣に就任した。2001年自由民主党総裁選挙には亀井が立候補したが小泉純一郎に敗れた。

派閥結成当初より、党内でも守旧派であったが、村上・小山孝雄KSD事件で受託収賄容疑で逮捕され、参議院議員辞職したため、柳川覚治繰り上げ当選2001年の小泉政権誕生以降は、江藤と亀井は、改革派の小泉の言ういわゆる「抵抗勢力」の代表格として、小泉改革を批判する急先鋒となった。


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