志公会
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志公会会長を務める麻生太郎
略称麻生派
前身為公会(麻生派)
番町政策研究所(山東派)
天元会(佐藤グループ)
設立2017年平成29年)7月3日
設立者麻生太郎
山東昭子
佐藤勉
種類自由民主党の派閥
本部全国旅館会館3階
所在地東京都千代田区平河町2丁目5-5
会員数自由民主党所属国会議員
会長麻生太郎
特記事項
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全国旅館会館(千代田区平河町)。志公会が入居する

志公会(しこうかい)は、自由民主党の派閥の一つである。通称は麻生派。

本項では前身である大勇会・為公会についても扱う。

ルーツは、当時の宏池会会長宮澤喜一による加藤紘一への派閥会長(後継者)指名に反発し、脱退した15名の反加藤の宏池会所属議員らで結成された「大勇会」である。2006年12月15日、麻生太郎らが河野洋平以外の大勇会(河野グループ)を継承した新派閥「為公会(麻生派)」結成後は「麻生太郎政策集団」となっている[1]
沿革
大勇会時代河野洋平

大勇会時代は、理念・政策よりも反加藤という人間関係で集まって成立した派閥である。そのため、領袖は親中派ハト派の河野であるものの、派のメンバーは麻生を筆頭に親台湾派のタカ派議員がほとんどで、理念・政策的な明確な接点はなかった。
派閥横断期

大勇会というグループ自体は1992年(平成4年)、河野が宮澤内閣内閣官房長官を務めていた頃に派閥横断的な政策集団として結成されているものの、この時から後に河野と宏池会を脱退し、自民党内派派閥「大勇会」結成時から所属する粕谷茂ら反加藤色の強いメンバーが参加していた。
党総裁指名を巡る宏池会内の対立

1995年平成7年)時点の現職総裁宏池会(宮澤派)の河野洋平であった。しかし、宮澤派の実力者である加藤紘一は河野再選を支援せず、1995年自由民主党総裁選挙(自民党総裁選挙)で、小渕派(平成研究会)の橋本龍太郎を支持した。加藤は橋本の党総裁当選に伴い、自民党幹事長の役職を獲得し、就任した。この結果、河野と加藤の対立は決定的となる。
宏池会内反加藤グループによる結成

1998年(平成10年)12月、宏池会の後継会長が加藤となることに河野が反発し、派内の「加藤就任に批判的な議員」15人と共に宏池会を脱退した[1]

1999年(平成11年)1月18日、鯨岡兵輔三木派出身)を最高顧問に迎えて、正式に派閥として大勇会(たいゆうかい)(河野グループ)を旗揚げした。

旗揚げに参加した15議員(結成時点の当選回数)[1]河野洋平(11回)相澤英之(8回)栗原裕康(2回)麻生太郎(6回)石川要三(7回)
衛藤征士郎(5回)粕谷茂(9回)亀井久興(2回)河野太郎(1回)鈴木恒夫(3回)
中馬弘毅(6回)東家嘉幸(7回)松本純(1回)森英介(3回)浅野勝人(2回)

他に岩下栄一(1期)、最後に鯨岡兵輔(12期)が合流し、上記の17名で大勇会は結成されている。麻生太郎が松本純に「義理と人情とやせ我慢」との言葉を贈っている[1]

なお、河野洋平の父親である河野一郎が率いた「河野派」(春秋会[注釈 1])は、1972年に福田派(清和政策研究会)に合流しており、系譜的な繋がりはない[2]
加藤の乱「加藤の乱#不信任決議案における投票行動」も参照

2000年の加藤の乱では反加藤という派の性格のため、加藤が起こした第2次森内閣における内閣不信任決議に12名で反対に回った。
河野洋平の親中姿勢反発による離脱

その後、衛藤征士郎台湾李登輝来日を河野が執拗に妨害しているとして離脱した(後に親台派色の強い清和政策研究会に入会)。
衆院議長職就任による河野洋平離脱

2003年(平成15年)11月に河野洋平の衆議院議長就任のために自民党籍自体から離脱した。そのため、座長の相澤英之元衆議院議員が派閥をまとめる立場に就いた。
2006年自由民主党総裁選挙の立候補対立と決着

2006年(平成18年)5月、派閥所属議員の河野太郎(洋平の子)が、同年9月に行われる自民党総裁選出馬に意欲を見せる麻生太郎に先駆けて、立候補を表明した。しかし、大勇会としては既に麻生の出馬を前提に動いていたため、大勇会の鈴木恒夫事務総長が河野太郎に対し、「(河野が)総裁選出馬を辞退する場合は、麻生氏の推薦人になるように」と、異例の忠告を行った。その後、河野太郎は実際に出馬を断念し、麻生陣営に参加した。
為公会時代麻生太郎(自由民主党総裁時代)

2006年(平成18年)9月20日の自民党総裁選で、麻生太郎が河野グループという12名の弱小派閥所属ながら136票で次点となり、次期総裁の有力候補としての地歩を固めた。総裁選翌々日の9月22日、河野洋平が麻生に大勇会(河野グループ)会長就任を打診したものの、麻生は「今後の情勢を見極めて判断する」と答えた。


2006(平成18)年10月23日には、太郎会(麻生太郎を囲む超派閥の会)が設立された[1]
麻生派の結成

2006年(平成18年)12月15日麻生太郎が大勇会を継承しつつ新派閥として為公会(麻生派)を立ち上げた。大勇会(河野グループ)は8年に及ぶ歴史にピリオドを打ち、為公会(麻生派)に引き継がれた[3]

麻生が旗揚げした新派閥には、衆議院議長在職中の河野洋平を除いた旧河野グループ全議員11人に加え、無派閥の鴻池祥肇山口俊一赤間二郎鈴木馨祐各衆院議員が参加した。派閥名は、中国の古典『礼記』の一節「天下為公」から取った[1]

メンバーは、麻生太郎(会長)、中馬弘毅(座長)、鈴木恒夫(副会長)、鴻池祥肇(副会長)、森英介(事務総長)、山口俊一、岩屋毅、河野太郎、桜井郁三、井上信治、赤間次郎、鈴木馨祐、薗浦健太郎、浅野勝人、松本純(事務局長)の15名[1]



2007年自由民主党総裁選挙・敗北による非主流派入り


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