忍県
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忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。
藩史
深溝・東条松平家時代

忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。上杉氏後北条氏の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。そして、成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。

後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れた。しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠(松平深溝氏(まつだいらふこうずし))が1万石で入る。家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。文禄元年(1592年)に家忠は下総国上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張国尾張藩52万石に加増移封された。その後しばらく、忍藩は廃されて幕府領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた。
大河内松平家時代

寛永10年(1633年)、「知恵伊豆」と称された松平信綱(久綱の子)が3万石で入る。信綱は老中に昇進して島原の乱鎮圧では総大将として幕府軍を率いて乱を鎮圧し、寛永16年(1639年)にはその武功により武蔵川越藩6万石に加増移封された。
阿部家時代

代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋が5万石で入る。信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。忠秋は正保4年(1647年)に1万石、寛文3年(1663年)に2万石を加増され、合計8万石を領する大名となった。

その後も阿部家は正能(9万石[1])、正武(10万石)、正喬というように、歴代藩主が老中に就任している。特に正武は徳川綱吉の厚い信任を得て23年間も老中を務めて8万石[2]から10万石に加増され、忍城の修築や家臣団の規律制定など、藩政の固めに尽力している。正喬ののちは正允正敏正識正由と継がれたが、これらの藩主も老中・京都所司代大坂城代などの要職を歴任した。

しかし藩政においては、寛保2年(1742年)に領内を襲った大洪水や天明3年(1783年)の浅間山噴火天明の大飢饉、その3年後の大洪水などで大被害に遭う。加えて、歴代藩主が幕府の要職に就いたため出費が重なって、藩財政は大きく逼迫した。このような中で宝暦2年(1752年)と明和元年(1764年)に藩内で一揆が起こるなど、藩政は不安定化の一途をたどった。文政6年(1823年)、正権(正由の子)のとき、阿部家は陸奥国白河藩へ移封となった。
奥平松平家時代

代わって伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入る(なお、この際に桑名藩領の一部が忍藩領になっており、陣屋(大矢知陣屋)が置かれていた)。


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