忌宮神社
所在地山口県下関市長府宮の内1-18
位置北緯33度59分56.3秒
東経130度59分15.2秒
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、山口県下関市にある神社。長府(城下町エリア)のほぼ中心に位置し、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮である豊浦宮の跡とされる。目次
1 概要
2 祭神
3 別宮・摂末社
4 歴史
5 年中行事
6 特殊神事
7 文化財
8 脚注
9 関連図書
10 外部リンク
概要 相撲資料館
式内社で、旧社格は国幣小社。長門国二宮とされ、現在は神社本庁の別表神社である。飛地境内として国の天然記念物満珠島干珠島を有している。
また、魁傑將晃が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、毎年11月3日の三日相撲に合わせて参拝する。荒熊稲荷神社脇には相撲資料館が併設され魁傑や大乃国康(現:芝田山)の化粧まわしや優勝杯、大銀杏などが展示されている。 仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征討に訪れ、仲哀天皇2年(193年)に行宮豊浦宮を建てられた。三代実録によれば、仲哀天皇4年(195年)に秦の始皇11代の孫功満王(こまおう)が渡来して日本に住みつき、珍しい宝物である蚕(かいこ)の卵を奉献したとされ、豊浦宮(現在の忌宮神社)が蚕種渡来の地とされる。 仲哀天皇8年(199年)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で亡くなった仲哀天皇を、神功皇后が三韓征伐からの帰途、豊浦宮の跡に祀ったのに始まると伝える。聖武天皇の時代に神功皇后・応神天皇を奉斎して、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し、三殿別立となっていた。中世に、火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった。延喜式神名帳では「長門国豊浦郡 忌宮神社」と記載され、小社に列している。 延元元年(1336年)、足利尊氏が忌宮神社で戦勝祈願を行い延元2年(1337年)に法楽和歌を奉納する。長府毛利家の厚い庇護を受け、境内社として歴代藩主を祀る豊功神社も置かれた(現在は長府海岸近くの宮崎八幡宮と合祀され豊功神社として祀られている)。古来、文武の神・勝運の神として歴朝の尊崇厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。
祭神
本殿 第一殿:仲哀天皇、第二殿:神功皇后、第三殿:応神天皇
荒熊稲荷神社
別宮・摂末社
若宮社:仁徳天皇
高良社:地主大神・武内宿禰
八坂神社:素戔男尊をはじめ42柱(神社合祀のため)
荒熊稲荷神社:宇迦之御魂神・宗像三女神
惣社宮:天神地祇
守宮司神社:応神天皇
歴史
年中行事
奉射祭 - 1月15日
蚕種祭 - 3月28日
島祭 - 4月2日
春季大祭 - 5月15日(最寄りの日曜日)
夏越祭 - 7月14日 - 16日
数方庭祭 - 8月7日 - 13日まで毎夜
秋季大祭 - 10月15日(最寄りの日曜日)
三日相撲 - 11月3日
御斎神事 - 12月7日夕 - 15日暁
例祭 - 12月15日
特殊神事
数方庭祭(すほうていまつり)
8月7日から13日まで7夜に渡って行われる祭である。仲哀天皇7年、新羅の塵輪(じんりん)の扇動で熊襲が豊浦宮を襲撃したが、仲哀天皇自ら弓矢を取って塵輪を討ち、熊襲を撃退した。戦勝を祝い、塵輪の屍体を囲んで踊ったのが数方庭の起源であると伝える。石見神楽など、各地方に伝わる神楽舞には「塵輪」という演目があるが、本伝説が基といわれる。一説では塵倫は巨大な怪鳥であったともいわれ数方庭祭を斎行しなかった年に長府の空を大きな鳥の影が飛び疫病が流行った。塵倫の祟りだと考えた神社、また長府の町民が7日間数方庭祭を続けたところ疫病が治まったことから一週間祭りを行うとも、神功皇后が7日7夜の間、忌籠りされて天地の神々に戦勝を祈願されたという伝説、仲哀天皇の追悼の為、7日間喪に服したことからなど諸説ある。この7日間は後述の御斎神事期間の由来と同様とされる。「すほうてい」は他に「スホーデン」「スッポウディ」などと呼ばれ、「数方庭」の他にも「数宝庭」「数方勢」などの当て字がある。