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仏教の概念については「心 (仏教)」を、その他のこころについては「こころ」を、二十八宿の一つである心(しん)については「心宿」を、動物の内臓については「心臓」をご覧ください。

心(こころ)は、非常に多義的・抽象的な概念であり文脈に応じて多様な意味をもつ言葉であり、人間(や生き物)の精神的な作用や、それのもとになるものなどを指し、感情意志知識、思いやり[注釈 1]などを含みつつ指している。
多義的用法.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィクショナリーに関連の辞書項目があります。心、こころ

"心"の広がりは、深く、広く、 感じるままに、思うがままに、 哲学の海、心理の森を旅する。広辞苑は以下のようなものを挙げている。

人間の精神作用のもとになるもの。

人間の精神の作用。

知識感情意思の総体。

おもわく。

気持ち

思いやり、情け

他に趣き、趣向、意味、物の中心、等。
概説
歴史概観

古代中国では、心は心臓部、部に宿っていると考えられていた[1]旧約聖書では心に相当する語としてはヘブライ語lebが用いられ、旧約がギリシャ語に翻訳されることになった時、ギリシャ語で心臓を意味する「kardia」が選ばれ[1]、それは広まった。古代ギリシャアリストテレスは自著『ペリ・プシュケース』において[注釈 2]プシュケー、すなわちこころやや命について論じた。心をモノのひとつの性質・態と考え「モノの第一の"エンテレケイア"」と呼び、こころとからだはひとつであり、分離できるようなものではない、とした。

東洋では陸象山が「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。天台宗は、心には地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界があるとした。これを十界論と言う。(→東洋における心の理解

17世紀の自然哲学者デカルトは「心は心で物は物」と完全に分断する論法(「デカルト二元論」)を展開した。(→心の哲学で参照可)

また主として存在論的な観点については、現在でも「心の哲学」という分野で様々な議論が行われており、様々な立場がある。(詳細については心の哲学を参照のこと。)

現代でも世界の人々の大半は「心」と言う場合、人間を人間らしく振舞わせる事を可能にしている何か、を想定している。
西洋における心の理解
聖書

聖書旧約聖書)におけるleb[注釈 3](eの音が長く、レーブ)というヘブライ語は、日本語の「心」に一致している点が多い[1]。イスラエル人にとっても、lebは心臓を意味するだけでなく、感情、記憶[2]、考え、判断[3]などの座とされた。旧約聖書がギリシャ語に翻訳されることになった時、このlebの訳語に、ギリシャ語で心臓を意味する「kardia」が当てられた[1]。こうして、kardiaはヘブライ語lebの意味も担いつつ 新約聖書で広い意味を与えられることになった[1]。心は容姿などと対比される人間の内面性全てを含み、人格全体を表したり、特に人間の良心、あるいは、神が人間と関わる場、人間の宗教的態度の決まる場[4]、として登場する[1]。なお、救いは旧約の『エゼキエル書』において「新しい心」の授与として約束されていた[5][1]とされる。
西洋哲学

西洋哲学でも心を扱ってきた。

ギリシャ語のpsyche プシュケーはもともとはを意味している[1]。そのpsycheがやがて心やも意味するようになり、また《動く力》や《生命力》なども意味するようになった[1]

「心はどこにあるのか」という疑問について言えば、バビロニアでは肝臓にあるとする説があり、ヒポクラテスは心は脳にあるとし、プラトンは脳と脊髄にこころが宿っていると考えた[1]アリストテレスは心臓にそれを求め、その考えは中世に至るまで人々に影響を与えた[1]。その後こころは脳室にあると考えられるようになり17世紀まで人々から支持されるようになったという[1]

カントメルロ・ポンティによる現象学、またヴィトゲンシュタインの言語分析などが、心と身体に関する哲学的な新領域を開拓した[1]。また、ロックヒュームコンディヤックらの哲学的考察が、時代を経て、やがて《心の学》としての心理学へとつながってゆくことになった[1]

最近でも心を巡ってさかんに哲学的な議論は行われている。その領域を心の哲学という。「哲学」、「西洋哲学」、および「心の哲学」も参照
心理学詳細は「心理学」を参照

現代において、人の心の働きを研究する学問のひとつに心理学があり、初期は内観から始まった。古典的な説をいくつか紹介すると、ジークムント・フロイトは「心では抑圧された願望が意識のなかに持ち込まれないように様々な心理機制の働きを借りようとしている」ととらえ、心の範囲を無意識にまで拡大し、自由連想法を体系化し、彼の治療法を精神分析と名付けた[1]カール・グスタフ・ユングは個人的無意識と集団的無意識があるとし、後者は全ての人間に共通のものとして人々の人格の基礎に伝わるものだ、とした[1]。こうして人間の心は次第に多層的に理解されるようになった[1]。現代の心理学では、以上のような古典的な説とは異なった観点で、人の反応を厳密な統計的手法で解析してもいる。様々な手法がある。
東洋における心の理解
心学「心学」も参照

中国では陸象山、王陽明らが心学を樹立した。

陸象山は「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」と述べ、また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。

王陽明は、心によって理が発現する、とした。これは、それまで朱子学では理というものが客観的に存在するとしていたのに対して異を唱えたのである。心の能動的で主体的な発用を主張する内容であったため、陽明学は心学と呼ばれるようになった。

もともと中国では「心学」という語は、中国仏教における戒学・心学・慧学という分類用語として用いられてはいたが、陽明学が登場してからは「心学」はもっぱら陽明学を指すようになった。
仏教哲学「五位」、「心 (仏教)」、「心所」、および「」も参照


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