心身問題
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心身問題(しんしんもんだい、英語:Mind?body problem)とは哲学の伝統的な問題の一つで、人間の関係についての考察である。この問題はプラトンの「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能ではあるが、デカルトの『情念論』(1649年)にて、いわゆる心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなった。現在では心身問題は、認知科学神経科学理論物理学コンピューターサイエンスといった科学的な知識を前提とした形で語られている。そうした科学的な立場からの議論は、哲学の一分科である心の哲学を中心に行われている。

本稿では、デカルトの時代における心身問題の議論から、心の哲学による科学的な心身問題の議論に至るまでの、大きな流れを記述する。
デカルトの心身二元論[ソースを編集]松果体の働きを説明するためにデカルトの「省察」でもちいられたイラスト

デカルトは心を「私は考える」 (cogito) すなわち意識として捉え、自由意志をもつものとした。一方、身体は機械的運動を行うものとし、かつ両者はそれぞれ独立した実体であるとした。ただし、このことは心と身体に交流がないことを意味しない。デカルトは精神と脳の最奥部にある(とされた)松果腺動物精気血液などを介して精神と身体とは相互作用すると主張している[1]

デカルトは、心身の交流が「精神の座」としての松果腺(glans pinealis)において、動物精気を媒介にして行なわれると考えた。しかしエリザベートは、こう鋭く質問した。

「「全く物体性を持たぬ精神が、いかように物体(身体)の運動を決定する、ということは矛盾ではないのか。一物体の運動の決定は他の物体によって為される、従って後者は前者と「接触」し且つ「延長」を有するものでなければならない。しかるに、精神が動物精気の運動を決定するという時には、それは物体に直接に働きかけるのであるから、「接触」は起こっているはずであるのに、今一つの条件たる「延長」は精神に帰せられていない。これは不可解である。むしろ精神自体もある延長を有するものとすべきではないか[2]」」

エリザベートの批判は、まさに「等しきものは等しきものによって」説明されるべき限り、心身の相関関係において、心が身体に影響を及ぼす以上、身体という物体に物理的影響を与えうるものはそれ自身精神(心)も何らかの物質的存在性を有さねばならないという正当な根拠に基づくものである。デカルトは、エリザベートにこう返書した。

「「私は、嘘いつわりなく申し上げますが、王女様の御質問は、私が今まで出版した書物を読んで後、私に対して発しうる最も理にかなった御質問であると思います。なんとなれば、人間精神には二つのこと、一つは精神が思惟すること、他は精神が身体に合一していて、それに働きかけ働かれる(agiretpatir)こと、が属するが、後者については私は殆んど何事も論じておらず、専心ただ前者について世人の理解の徹底に努めてきたが、それというのも私の主たる目論見が、魂と肉体の区別を実証することにあったからです[3]」」

さてデカルトは、「思惟」と「延長」及び「心身合一」を三種の「原始的観念」とする。そして、「心身合一」の観念は、「思惟」や「延長」とちがい、それらに還元できない原始的なものであり、それの派生観念として「力」の観念がある。つまりデカルトは、形而上学的なレベルでは、心身分離のテーゼを堅持し、日常的な生のレベルでは、心身合一のテーゼを是認するのである。デカルトは、心身問題を「心において受動(情念)なるものは、身体においては一般に能動である」という立場から,『情念論』』(les Passions de l'Ame)で主題的に論及している。『情念論』が、心身の実在的区別と心身の相互作用とがどうして矛盾ではないのかという難問の解決になっていないにしても、デカルトが心身問題を人間存在の情念(Passion)に、即ち感情に解決の方向を見出したことは、それ以後の展開を考えると示唆的である[4]
機械論・唯物論
機械論」も参照

デカルトによる生命の機械論的解釈をさらに徹底化させたラ・メトリー(1709年 - 1751年)ら機械論唯物論の見地に立てば、感情などの心の現象も生物学化学的な作用であるため、心と体という分離自体がナンセンスである――なぜなら、「心」は「体」の脳の機能によって発生したものである以上、心は独立した実体などではなく、脳によって作り出されたものであるから――とされる。
スピノザとライプニッツ[ソースを編集]

スピノザは、『エチカ』(1677年)の中で、デカルトを批判した。

「「これがかの有名な人の見解である。もしこの見解がこれほど尖鋭でなかったならば、私はそれがかくも偉大な人から出たとは殆んど信じなかったであろう[5]」」

スピノザの非難する理由はこうである。

「「一体彼〔デカルト〕は、精神と身体との結合を如何に解しているのか。……彼は精神を身体から裁然と区別して考えていたので、この結合についても、また精神自身についても、何らの特別な原因を示すことが出来ないで、全宇宙の原因へ、即ち神へ、避難所を求めざるを得なかったのである[6]」」

心身問題に対するスピノザの解決策は、「観念の秩序と連結は物の秩序と連結と同一である(Ordo et connexio idearum idem est, ac ordo et connexio rerum.)[7]」という物心平行論、従って心身平行論である。つまり現実の円と、この円の観念とは「同一物であり、それが異なる属性によって説明される[8]」のである。「人間精神を構成する観念の対象は身体である[9]」。従って、「我々の精神の対象は存在せる身体であって、他の何物でもない[10]」。そして存在せる身体の観念は人間精神である。同一の人間存在を、思惟という属性の下に解すれば「精神」であり、延長という属性の下に解すれば「身体」である。従って「我々の身体の能動と受動の秩序は、本性上、精神の能動と受動の秩序と同時である[11][4]

これに対して、ライプニッツは心身問題を有名な「予定調和説」によって説明した。「精神と身体とが一致するのは、あらゆる実体の間に存する予定調和による為であり、それはまた実体が元来悉く同一宇宙の表現だからである[12]」。ライプニッツは、心身関係を二つの時計の比喩で説明する。時計の製作者が優秀であればあるほど、相互に何の因果関係もない二つの時計が、時刻がぴったり完全に一致するように製作可能である。ましてそれが神であれば、それは完全無欠である。「今この二つの時計の代りに、精神と身体とを置いて見る[13]」。精神と身体との間には、デカルトが明らかにしたように、何の相互作用も実際には存しないにも拘らず、神の予定調和によって、心身間の相互関係は、あたかも直接に対応し合っているかのように、成立する。ライプニッツによると、予定調和説とは「神が初めに精神又は他のあらゆる事象的統一体を創造した際に、その精神に生ずる全てのことが、精神そのものから見ると完全な自発性によっていながら、しかも外界の事象と完全な適合を保って精神そのものの奥底から出てくるような具合にしておいたのである」とする説である[14]

しかし、ライプニッツの予定調和による心身問題の説明は神学的な想定による説明であり、それ以上の解明が不可能であり、少しも生産的な考察をもたらさない[4]
ベルクソンとメルロ=ポンティ[ソースを編集]

デカルト以来の心身二元論に基づく心身問題に、現代哲学の新しい観点からそれを克服する方途を提示したのは、奇しくも同じフランスの哲学者ベルクソンメルロ=ポンティである。

ベルクソンは、自ら物心二元論の立場に身を置きながら、物質と精神に独自の解釈を加えることによって心身二元論の難点を解消しようとするのである。彼はまず物質(matiere)、精神の内にのみ存在する表象と解する観念論の物質観と、我々の表象とは全く独立に存する物と解する実在論の物質観との「中間のもの」(michemin)と捉える[15]のである。ベルクソンはこれを「イマージュ」(image)と呼ぶ。だからイマージュとは、心像としては精神的であり、それ自体で存在する形像(物像)としては物質的であり、まさに中間的な存在物である。我々のまわりに存在する石、樹木、港、山はすべてイマージュとしての物質である。そして「私の身体」もやはりイマージュとしての物体である。ベルクソンによれば、知覚とは受動的のみならず、身体が能動的に世界に働きかける可能的運動とされている。だから物質がイマージュとすれば、物質の知覚とは身体に関与したイマージュの運動形態(一種のひろがりのあるもの)であることになる。「生ける知覚は単に受動的でなく、同時に能動的でもあるという二重構造をもっている[16]」。つまり生ける知覚は、「記憶」の時間的持続を保持したものである。我々の生ける知覚においては、知覚と記憶の相互浸透が生起しており、この相互浸透が人間存在と世界の問に能動的一受動的な二重の関係構造を形成しているのである。ベルクソンによれば、私の身体とは、「受けては返される運動の通過地点であり、私に作用する事物と私が働きかける事物との連結線、一言でいえば、感覚=運動的現象の座である[17]」。

ベルクソンの哲学的心身論の独創性は、技能を修得する「身体」に特徴的に顕示されている身体現象の実相を、知覚に関して身体の生理的心理的メカニズムを一定の方向に習慣化させる「運動的図式」(le scheme moteur)を想定して見事に説明したことである。「運動的図式とは、解剖学的に知られる身心の生理心理的メカニズムの根底にあって、世界に対する行動的関わりを潜在的に形成し志向する見えざる作用だといってもいいだろう。身体のメカニズムは、そういう運動的図式によって賦活されることによって、はじめて生ける身体になるのである[18]」。

ベルクソンは、デカルト的な心身二元論やスピノザ的な心身平行論を克服せんと試みて、心身がゆるやかに相互浸透し、結合し合う身体論を構築したが、彼の生ける身体論は、それ自身「ゆるやかな心身二元論」の域を超えるものではなかったといえる[4]

これに対して、メルロ=ポンティはフッサール現象学的方法を活用しつつ、ハイデガーの実存的人間存在論を取り込みながら、ベルクソンを超えるような方向で新たな身体論を試みたのである。


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