徽子女王
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「斎宮女御」はこの項目へ転送されています。源氏物語の登場人物(六条御息所の娘)については「秋好中宮」をご覧ください。
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徽子女王
徽子女王(狩野尚信『三十六歌仙額』より)
時代平安時代中期
生誕延長7年(929年
卒去寛和元年(985年
別名斎宮女御、承香殿女御、式部卿の女御
官位従四位上女御
父母父:重明親王、母:藤原寛子
兄弟源邦正、源行正、源信正、徽子女王、悦子女王、
村上天皇
規子内親王、皇子
斎宮承平6年9月12日936年9月30日)- 天慶8年1月18日945年3月4日
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徽子女王(きし(よしこ)じょおう)は、平安時代中期の歌人式部卿宮重明親王の第1王女醍醐天皇皇孫)。母は藤原忠平の次女・寛子朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御(さいぐうのにょうご)と称され、また承香殿女御、式部卿の女御とも称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。
略歴

承平6年(936年)9月12日、5月に急逝した斎宮・斉子内親王(醍醐天皇皇女)の後を受けて、8歳で伊勢斎宮に卜定される。承平7年(937年)7月13日、雅楽寮初斎院入り、同年9月27日、野宮へ遷る。天慶元年(938年)9月15日、10歳で伊勢群行。この時の群行の儀は朱雀天皇物忌中のため、外祖父の摂政・藤原忠平が執り行い、また群行には長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)として伯父の中納言・藤原師輔が同行した。天慶8年(945年)1月18日、母の死により17歳で退下、同年秋帰京。

天暦2年(948年)12月30日、叔父・村上天皇に請われて20歳で入内。天暦3年(949年)4月7日、女御の宣旨を受ける。局を承香殿としたことから「承香殿女御」、また父・重明親王の肩書から「式部卿の女御」などと称されたが、前斎宮であった故の「斎宮女御」の通称が最もよく知られている。皇子女は規子内親王(第4皇女)と皇子1人(早世)。

中宮・藤原安子宣耀殿女御藤原芳子など美女才媛の多い後宮にあって徽子女王の父譲りの和歌の天分は名高く、ことに七弦琴の名手であったといわれる。詠歌にも琴にまつわる秀歌が多く、また『大鏡』171段にも天皇と徽子女王の琴をめぐる逸話が語られており、『夜鶴庭訓抄』は斎宮女御が右手を琴を引く手として大切にし、普段は左の手を使ったと伝えている。その他、天暦10年(956年)に「斎宮女御徽子女王歌合」を、天徳3年(959年)に「斎宮女御徽子女王前栽合」を主催するなど、文雅豊かな村上天皇の時代に華を添えた。

康保4年(967年)に村上天皇が崩御、その後は一人娘の規子内親王と共に里第(内裏外の邸宅)で暮らす。天延3年(975年)、規子内親王が27歳で円融天皇の斎宮に選ばれると、翌貞元元年(976年)の初斎院入りに徽子女王も同行、同年冬の野宮歌合では有名な「松風入夜琴」の歌を詠む。そして貞元2年(977年)、円融天皇の制止を振り切って斎宮と共に伊勢へ下向し、前例のないこととして人々を驚かせた。(この時の逸話は後に『源氏物語』で六条御息所秋好中宮親子のもとになったと言われる)

永観2年(984年)、円融天皇の譲位で規子内親王が斎宮を退下すると、翌寛和元年(985年)共に帰京するが、この頃既に徽子女王は病身であったらしく、同年薨じた。従四位上享年57。
人物

「斎宮女御」の通称で知られる徽子女王は、前斎宮としては平城天皇妃・朝原内親王以来の皇妃であり、また母娘2代の斎宮となったのも酒人内親王、朝原内親王以来であった。しかし当時の後宮は中宮安子を始めとして摂関家出身の妃が多く、そんな中で徽子女王は高貴な出自でありながらも有力な後見を欠き、また頼りになる兄弟や皇子にも恵まれなかった。


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