徴用(ちょうよう、英語:requisition)とは、戦時などの非常時に、国家が国民などを動員して、一定の仕事に就かせること。勤労動員とも言う。または、戦時に必要な物品を国民から接収する行為[1][2]。「兵士としての徴用」は、基本的に「徴用」と言わずに徴兵(conscription)と言う[3]。勤労動員(徴用)はどの国でも行われている[1]。
戦争前から併合している領土の民へは認められているが、当該の戦争開始後に占領した地域の住民(戦争中の相手国国民)に対する徴用・徴発については1899年のハーグ陸戦条約に規定があり、対価を与えない場合は、徴用・徴発では無いとして禁じられている[2]。 オスマン帝国にはデヴシルメと呼ばれる強制徴用制度が存在した[4]。ムラト1世はイェニチェリと呼ばれる軍隊を創設し、バルカン半島にあるキリスト教徒の村々から少年の兵士として徴用した[5]。 戦争開始以降に占領した地域住民に対する徴用・徴発については1899年にハーグ陸戦条約に規定があり、正当な対価のない徴用・徴発は禁じられている。 イギリスは英領インド帝国民のインド人など支配地域の民には英国籍を与えておらず、英国民とは見なしていなかった。それでもハーグ陸戦条約的に合法であるため、イギリスは英領の民を各種戦時に徴用している[6]。 日本(大日本帝国)では、朝鮮人も日本国籍を持つ朝鮮系日本人とみなしていた[6]。そのため、内地(日本列島)に居住している日本国籍男子であれば朝鮮人・台湾人であっても法的には平等であり、地方参政権のみならず内地民と同じで国政選挙の内衆議院議員の選挙権・被選挙権をともに有していた。貴族院へは内地人も投票権・被選挙権を有さないものの、任命は可能なので朝鮮系貴族議員らは輩出されている。1945年(昭和20年)4月には勅任の朝鮮勅選議員枠および台湾勅選議員枠が作られている逆に、当衆議院議員選挙法(普通選挙法)では内地人(大日本帝国と名乗る以前からの日本人やその子孫)であろうと含め、朝鮮半島・台湾など日本列島外(外地)の在住者には選挙権・被選挙権がなかった[7]。 1939年(昭和14年)に国民徴用令が制定され、第二次世界大戦の終結まで行われた。 日中戦争の全面化によって、日本の戦争の長期化・総力戦化が確実な状況となり、相次ぐ徴兵に伴う労働力不足と軍需関連を中心とした需要と生産規模の急激な拡大によって労働コストが急激に上昇していった。この事態に対応するために軍需関連を中心とした労働力の安定確保を図る必要性が生じた。
概要
中世・近世
オスマン帝国
近現代
日本勤労動員で働く女性たち(1944年)
1945年(昭和20年)3月6日、国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労令・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令は廃止・統合され、国民勤労動員令が公布された(勅令)。終戦時において、被徴用者は新規徴用161万、現員徴用455万、合わせて616万人が徴用されていた。
なお、野口悠紀雄など一部の学者からは、戦後日本の労働制度と戦時中の徴用制度の共通性を指摘する意見も出されている[8]。
国民徴用令の適用は内地民とされており、免除されていた朝鮮人(朝鮮系日本人)にも適用するとした閣議決定が1944年(昭和19年)8月8日になされた[9]。その後、1944年9月より朝鮮人にも適用(日本統治時代の朝鮮人徴用)が実施され[10]、1945年8月の終戦までの11か月間実施される。