徳間康快
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とくま やすよし
徳間 康快
生年月日 (1921-10-25)
1921年10月25日
没年月日 (2000-09-20) 2000年9月20日(78歳没)
出生地 日本神奈川県横須賀市
国籍 日本
職業実業家
映画プロデューサー
ジャンル映画、レコード製作、出版
主な作品
敦煌』(製作総指揮)
おろしや国酔夢譚』(製作総指揮)
耳をすませば』(製作総指揮)
ガメラ 大怪獣空中決戦』(製作総指揮)
Shall we ダンス?』(製作総指揮)
ガメラ2 レギオン襲来』(製作総指揮、内閣官房長官役)
もののけ姫』(製作総指揮)
式日』(製作総指揮)
千と千尋の神隠し』(製作総指揮)

 受賞
日本アカデミー賞


特別賞企画賞

1989年

会長功労賞

1998年

2001年

その他の賞

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徳間 康快(とくま やすよし、1921年10月25日 - 2000年9月20日)は、日本実業家映画プロデューサー日本映画テレビプロデューサー協会日本雑誌協会、各会員[1]

株式会社徳間書店社長(初代)、徳間ジャパンコミュニケーションズ社長、大映株式会社社長、徳間プレスセンター社長、学校法人逗子開成学園理事長(第5代)、逗子開成高等学校校長(第12代)、株式会社スタジオジブリ社長(初・3代)、東京都写真美術館館長(第3代)などを歴任した。他に社団法人日本映画製作者連盟理事、社団法人日本レコード協会理事、東京国際映画祭ゼネラルプロデューサーなど。
来歴・人物

神奈川県横須賀市生まれ。

逗子開成中学校を経て、早稲田大学商学部卒業。青年期は日本共産党に入党していた[2][3]1943年読売新聞社(現・読売新聞東京本社)に入社したが読売争議により1946年、2年半で同社を退社[4]。同盟通信を退いた松本重治の民報で社会部次長となるが1948年に倒産[5]

友人である中野達彦(中野正剛の息子)が社長の出版社「真善美社」の専務となるが、すぐに倒産[6]緒方竹虎副総理の紹介で、1950年、新光印刷の社長に29歳で就任[4]。新光印刷の副社長は友人・中野達彦だった[7]。新光印刷は、後に、やはり徳間が経営していた日本写真製版株式会社を吸収して、新光印刷工業株式会社となり[8]、のち徳間プレスセンターとなった。

その後、1953年、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていた日東新聞副社長になる[1]。やはり竹井が経営していた週刊誌「アサヒ芸能新聞」(アサヒ芸能新聞社から発行)が、日東新聞の不振のため1954年2月で休刊になっていた経営を引き受け、1954年3月に、株式会社「東西芸能出版社」の社長となり、「アサヒ芸能新聞」を1954年4月から再刊[9]。1956年に「アサヒ芸能新聞」の売れ行き不振のため、銀行から融資停止の連絡が届き、従来のタブロイド版からB5判の一般週刊誌「週刊アサヒ芸能」として1956年10月から発行開始[10]。「二流」を自認した庶民派の編集方針で人気雑誌とする[11][4][12]。1958年、社名を株式会社「東西芸能出版社」から株式会社「アサヒ芸能出版」に変更して、引き続き社長[13]

1961年、総合出版会社を目指して新たに徳間書店を創設、「アサヒ芸能出版」と二社体制となった[14]。1967年に徳間書店と「アサヒ芸能出版」が合併して、徳間書店として一本化した[15]

また遠藤実のミノルフォン音楽工業を引き受け、五木ひろしとの出会いからレコード業界にも名乗りを上げ、徳間音楽工業と社名変更した(のち徳間ジャパン[4][16]1973年グループ17番目の事業として東京タイムズの経営に着手[4]大映買収にも成功した(後述)。

また「現代史の記録」を目的として1972年に、現代史資料出版センターを設立、翌73年、現代史出版会と改名[17](同社には和多田進がいた)し、1984年まで出版活動を行った。

母校である逗子開成中学校・高等学校を運営する逗子開成学園の理事長や、東京都写真美術館の館長なども務めた。

2000年9月20日午後6時17分に日本医科大学付属病院で死去(78歳没)[18]
映画事業「大映」および「スタジオジブリ」も参照
教育事業「逗子開成中学校・高等学校」も参照

1980年代には、母校を運営する逗子開成学園の理事に就任した。当時の逗子開成学園は「八方尾根遭難事故」訴訟への対応を巡って混乱していたが、徳間は早期解決を主張し問題解決に尽力した[19]

学校の管理責任を巡り、八方尾根で遭難し犠牲となった生徒遺族と、逗子開成学園理事長ら学校側との間で主張が対立しており、教職員らもどちらの主張を支持するのかで意見が分かれ、学園を二分する事態となっていた[19]。問題解決に消極的な他の役員らを尻目に、徳間は解決を目指し積極的に活動する[19]。のちに遺族との間で和解が成立すると、事態の混乱を招いた理事長らは退任することになった[19]。その結果、この事態を収めた徳間が1984年2月20日に理事長に就任し、以来、死去するまで務めた[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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