徳田秋声
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.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}コ田 秋聲
1938年昭和13年)の秋声
誕生1872年2月1日
日本石川県金沢市横山町
死没 (1943-11-18) 1943年11月18日(71歳没)
日本東京都本郷区
墓地小平霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴第四高等中学校中退
ジャンル小説
文学活動自然主義文学
代表作『新世帯』(1908年)
『足迹』(1910年)
』(1911年)
『爛』(1913年)
あらくれ』(1915年)
『仮装人物』(1935年)
縮図』(1941年)
子供徳田一穂
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徳田 秋声(とくだ しゅうせい、旧字体:コ田 秋聲、1872年2月1日明治4年12月23日) - 1943年昭和18年)11月18日)は、日本小説家。本名は末雄(すえお)。日本の近代文学を代表する作家の一人である。帝国芸術院会員。

石川県金沢市生まれ。尾崎紅葉門下であったが、現実社会に目を向け『新世帯』『足迹』『』『爛』『あらくれ』などを発表。自然主義的技法の完成者であり、静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風で、島崎藤村田山花袋と並ぶ大家となった。その後自然主義の衰退と共に行き詰まったが、『仮装人物』などで心境小説に新境地を開拓して復活。絶賛を受けた。その後『縮図』に取り掛かるも、戦時下に権力の干渉に遭って挫折し絶筆となった。
経歴
生い立ち

1872年2月1日[1]明治4年12月23日)現在の金沢市横山町に加賀藩家老横山氏の家臣徳田雲平の第6子(3男)として誕生(翌年の誕生日が暦の変更のため来なかったこともあり、生涯誕生日は12月23日、年齢は数え歳で通した)。自伝小説『光を追うて』によれば、雲平は秋声が3番目の妻タケ[2]の胎内にあるうちから「産まれ落ちたら知り合ひの農家へくれる約束」をしていたが、生まれた顔を見て思いとどまったという。明治維新後、秩禄公債で苦しい生計を立てていた没落士族の末子として「宿命的に影の薄い生をこの世に享け」た子供であり、4歳で生家を引き払って後は居を転々とし、また病弱であったため小学校へも学齢に1年遅れで入学しなければならなかった。随筆『思い出るまゝ』には、「私は幼い時分から孤独であつた。憂鬱の虫が体中に巣くつてゐた」と記されている。

小学生時代(現在の金沢市立馬場小学校)、一学年下に泉鏡花がいたが、この時点では顔見知り程度であった。1888年(明治21年)第四高等中学校に入学。このころから読書熱が高まり、翌年上級生から小説家になる事を勧められ志す。学科では、英語漢文が特に他に抜きん出ていた[3]
放浪時代

1891年(明治24年)、父が死去したため、第四高等学校を中途退学。翌1892年(明治25年)、友人の桐生悠々と上京し尾崎紅葉の門を叩くが、玄関番の泉鏡花に不在を告げられて辞去。郵送した原稿は、「柿も青いうちは鴉も突き不申候(まうさずさふらふ)」と書かれた返書を添えて返送された[4]。悠々が復学のため帰郷したのちは、大阪の長兄を頼るなど各地を転々とし、郡役所の雇員、新聞記者、英語教師などをしながら半放浪的生活を送った。「秋聲(秋声)」の筆名は、自由党機関誌「北陸自由新聞」の編集をしていた頃の1893年(明治26年)10月12日付けの私記「秋聲録」から使い始めた[5]
紅葉門下として

1895年(明治28年)、博文館の編集部に職を得、当時博文館に出入りしていた泉鏡花の勧めで紅葉の門下に入る。1896年(明治29年)、被差別部落出身の父娘に取材した『薮かうじ』を「文芸倶楽部」から発表して「めざまし草」の月評欄に取り上げられ、これが実質的処女作となる。以来、泉鏡花、小栗風葉柳川春葉とともに紅門の四天王と称され、1900年(明治33年)「讀賣新聞」に連載した『雲のゆくへ』が出世作となる。しかし、硯友社の戯作者的な傾向に沿わない地味で質実な作風であったため、4人の内ではもっとも影の薄い存在であった。
自然主義文学の大家へ

1902年(明治35年)7月ごろ、手伝いに来ていた女性の娘である小沢はまと恋愛関係になり、事実上の結婚生活が始まった(入籍は2年後)。1903年(明治36年)には、長男一穂が誕生する。同年尾崎紅葉が死去すると、硯友社もにわかに衰退をきたし、日露戦争後には文学の新気運として自然主義文学が擡頭するなかで、秋声の文学的資質が、新文学の写実的な傾向と相俟って本領を発揮してゆくこととなる。なお、1906年(明治39年)4月末頃、秋声の一家は本郷森川町の住居に転居し、ここが生涯の住処となった[6]

1908年(明治41年)、以前住まいしていた小石川表町の近所の酒屋をモデルにした中編『新世帯(あらじょたい)』を「国民新聞」10月16日-12月6日に連載し、自然主義への具体的な作風転換の第一作となる。また、1908年(明治41年)刊の短編集『秋聲集』[7]に所収の『発奮』『小軋轢』『犠牲』『絶望』『裏の家』『二老婆』、1909年(明治42年)の短編集『出産』[8]に収められた『北国産』『四十女』『日向ぼっこ』『晩酌』『大祭日』『リボン』及び表題作などの諸作によって短編作家としての実力を示し、自然主義の一角に地歩を占める[9]野口冨士男が「倒叙」と呼び[10]、松本徹が「錯綜する時間」と評した[11]、時間の巻き戻しの頻繁な秋声独特の文章はこのころから見られるようになる。

1910年(明治43年)には、妻はまをモデルに、信州の田舎から上京した娘がさまざまの成り行きを経て婚家を飛び出すまでをえがいた『足迹(そくせき)』[12][13]を「讀賣新聞」7月30日-11月18日に連載。1911年(明治44年)には、結婚に至るまでの経過とその後の無気力な生活に材を得た私小説『黴(かび)』を、夏目漱石の推挽により「東京朝日新聞」8月1日-11月3日に連載する。この「二作は秋聲の生涯における傑作であつたのにもかかわらず、その執筆当時においてはさしたる反響をよびおこすに至らなかつた」[14]が、翌1912年(明治45年)1月に『黴』が新潮社より単行本化されると、「早稲田文学」「新潮」誌等が盛んに書評や特集で取り上げ世評が高まり、秋声は初めてといっていいほどの文壇的成功をおさめる。それを追う形で『足迹』も1912年4月の単行本化と共に評価され、この2長編によって、島崎藤村田山花袋らとともに、自然主義文学の担い手として確固たる地位を築いた[15]

短編に於いても、『老婆』『娶(よめ)』『指環』(1909年/明治42年)、『死後』『二人』『山の手』『新店』(1910年/明治43年)、『ある夜』『丸薬』『出京』『下宿屋』(1911年/明治44年)、『わき道』『軀(むくろ)』『媾曳(あひびき)』『涙』(1912年/明治45年)など優れた作品を次々と発表し、その冷静な観察とリアリズムは、常凡な庶民の日常を「冷笑もせねばさしたる感激もなく世相の一端を切りとつて、ぢつと腰を据ゑて見」[16]ることによって裸形の真実を示している。生田長江は評論「徳田秋声の小説」において、秋声の自然主義を作者の「本来の性格に深い根差(ねざし)を置いてゐる」として、「生れたる自然派」と評した[17]


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