徳永寿昌
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 凡例徳永寿昌
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文18年(1549年
死没慶長17年7月10日1612年8月6日
別名昌時[1]通称:権之進[1]、下総守、石見守、式部卿法印
戒名広徳院殿桂厳寿昌大居士
墓所広徳寺岐阜県海津市海津町高須)
幕府江戸幕府
主君柴田勝豊豊臣秀吉秀次→秀吉→秀頼徳川家康秀忠
美濃高須藩
氏族徳永氏(藤原氏庶流[2]
父母父:徳永昌利(土佐守)
妻正室:三上氏
昌重、昌成、昌純、昌明
女(松平康重継室)
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徳永 寿昌(とくなが ながまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名美濃高須藩初代藩主
生涯

天文18年(1549年)、近江国徳永村に徳永昌利の子として生まれた[3][2]

はじめ柴田勝家の養子の柴田勝豊に仕えた[3][1]天正11年(1583年)、柴田氏羽柴氏が争った賤ヶ岳の戦いでは、直前に近江長浜城をもって勝豊が羽柴秀吉に下ったため、羽柴方となるが、勝豊の病気療養に従って上京していたので、戦いそのものには参加しなかった[1]。勝豊が病死した後は、秀吉の直臣となった[1]

天正12年(1584年)、小牧の戦いでは、秀吉の美濃尾張進撃に従軍した[1]

時期ははっきりしないが、後に豊臣秀次の附家老となり、尾張国丹羽郡美濃国松木島の内に2万石を与えられ、美濃高松城(松ノ木城)主となった[1][3]。ついで美濃で1万石を加増され、併せて3万石の知行となった[1][3]

秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る[要出典]。

文禄2年(1593年)8月25日、秀吉の命令で、朝鮮慶尚道金海に赴いて鍋島直茂の在陣の労をねぎらった[4]

文禄4年(1595年)4月12日、秀次が寿昌の京都の邸宅に泊まった[5]

7月、秀次切腹事件には連座せず、むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる[要出典]。

『太閤記』によれば、秀次の処刑後、丹波亀山城に軟禁されていた秀次の妻子は、7月29日、(前述の同じ)寿昌の京都の邸宅に移され、8月2日、処刑場に運ばれた[6]。その後、寿昌は再び秀吉に直仕した[1]

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなると、25日、五大老徳川家康前田利家は秀吉の喪を秘密にして寿昌と宮城豊盛を朝鮮に派遣した。これら代官は慶長の役のために在陣していた日本軍諸将と協議して、明と講和し、無事に全軍を撤収した[7][1][8][9]。帰朝後、秀吉の遺物吉光の刀を受領した[1]

慶長4年(1599年)、家康が伏見向島城に移ると、井伊直政本多忠勝榊原康政らと共に橋詰の番を務めた[10]。8月、直政を奏者として家康に二心無き旨を誓う誓書を出して、名代から返書を貰った[10]

慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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