徳武定祐
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徳武 定祐基本情報
国籍
日本
出身地東京都豊島区
生年月日 (1938-06-09) 1938年6月9日(85歳)
身長
体重178 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手
プロ入り1961年
初出場1961年4月9日
最終出場1970年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


早稲田中学校

早稲田実業学校

早稲田大学

国鉄スワローズ
サンケイスワローズ
サンケイアトムズ
(1961 - 1967)

中日ドラゴンズ (1968 - 1970)

監督・コーチ歴

中日ドラゴンズ (1972 - 1976)

ロッテオリオンズ (1977 - 1978, 1980 - 1988, 1990 - 1991)

中日ドラゴンズ (1992 - 1995)

早稲田大学

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徳武 定祐(とくたけ さだゆき、1938年6月9日 - )は、東京都豊島区出身(青森県三戸郡五戸町生まれ)の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督。旧名は定之。

次女は元タレントで、2012年3月31日郷ひろみと入籍した徳武利奈。
経歴
プロ入りまで

父・定雄は日本大学硬式野球部出身[1]終戦後に東京へ移り、早稲田中学校へ入学するも野球に集中するために早稲田実業学校高等部へ移籍した。2年次の1955年には全国高等学校野球選手権東京大会で準決勝へ進出するが、並木輝男を擁する日本大学第三高等学校に9回逆転サヨナラ負けを喫した。3年次の1956年夏の東京大会では4番・遊撃手として同期の醍醐猛夫とクリーンアップを打ち、1年生エース・王貞治の好投もあって勝ち進む。準決勝では後に国鉄スワローズで同僚となる村田元一を擁する明治高等学校と対戦して辛勝し、決勝は伏兵の成蹊高等学校に大勝して第38回全国高等学校野球選手権大会に出場した。1回戦で和歌山県立新宮高等学校を破り、2回戦の岐阜県立岐阜商業高等学校戦では、後に早稲田大学野球部時代に対戦する清沢忠彦に抑えられて敗退した[2]
リンゴ事件の再来

1957年早稲田大学野球部へ進み、東京六大学野球リーグでは在学中に2度の優勝を果たしたほか、3年次の1959年には全日本大学野球選手権大会決勝で関西学院大学硬式野球部を降して優勝した。主に三塁を守り、4年次の1960年には主将を務めて秋季リーグの早慶六連戦でも1学年下の安藤元博とともに優勝の原動力となり、11月8日の3戦目には本塁への激しい突入プレーで紛糾の主役となった。

1回戦で勝利したが2回戦で敗れ、お互いに1勝1敗で迎えた第3戦目では優勝に王手をかけた慶応が清沢を、早稲田が安藤を先発させた。初回に早稲田は先頭の伊田が死球で出塁すると、続く末次義久が犠打を決め、3番・石黒行彦が安打で繋ぎ一死1、3塁で4番・徳武を迎えた。徳武の打球はやや浅いセンターへの飛球だったが伊田はタッチアップで本塁を狙い、本塁でクロスプレーとなった。衝撃で相手捕手・大橋勲のミットからボールがこぼれたために早稲田が先制する。その後は安藤と清沢が投手戦を繰り広げて7回まで無得点のまま試合が進むと、8回に早稲田が相手の失策で1点を追加し、9回はこの回から登板した丹羽弘を攻めて一死3塁としたが、ここで事件が発生する。6番に入った徳武と同期の野村徹がショートゴロを放つと、三塁走者の徳武が本塁へ突入を試みた。タイミングとしては完全にアウトだったが、徳武が大橋のミットを目掛けて足を上げた危険なスライディングをしてしまい、大橋のミットごとボールを弾き飛ばしてしまう。ここで徳武がそのまま何も言わずにベンチへ戻れば発生しなかったが、この危険なプレーに反省の念を覚えた徳武が再び大橋の元へ歩み寄った姿が慶応側から抗議に映り、センターの守備に就いていた慶応の渡海昇二が駆け寄って徳武の胸を突いた。これで場内は騒然となり、両軍の選手らが本塁付近に集まって一触即発の状態となる。コーチや監督がその場を収めたものの球場の雰囲気は殺気立ったものとなり、その裏に徳武ら早稲田の選手が守備に就くと、慶応の応援席からみかん空き缶が次々に投げ込まれ、罵声で試合が中断した。周囲の誰もが第2の「リンゴ事件」を連想したところ、慶應監督の前田祐吉がとっさに三塁コーチスボックスに出て、学生たちを静めた[3] [4]。リーグ通算88試合出場、313打数92安打、打率.294、3本塁打、46打点。1958年秋季リーグからベストナインに5季連続選出(外野手1回、三塁手4回)された。大学同期には野村のほか、安藤元博とともに投の二本柱であった金沢宏がいる。
現役時代

1961年に11球団の争奪戦の末、国鉄スワローズへ入団する。読売ジャイアンツからは長嶋茂雄を遊撃手、広岡達朗二塁手に回すからと誘われたが、実際に長嶋は同期の難波昭二郎との兼ね合いで13試合に遊撃手として先発出場しており、広岡も入団初期には15試合に二塁手として先発している。しかし、長嶋の大学時代の恩師である砂押邦信からは「長嶋はショートは出来ない。巨人に入団しても出番は無いからウチ(スワローズ)に来なさい」と諭され、入団を決めた。金銭面よりも選手としての出場機会を取った選択だった。当時の国鉄は選手の給料もままならない貧乏球団だったが破格の600万円で契約を結ぶ。しかしこれにはさすがに周囲が黙っていることは無く「徳武に出す金があるなら国鉄の運賃の値上げを止めろ」という抗議が殺到し、初代林家三平もこれをネタにしていた。

入団1年目はシーズン途中から4番を任され、打率.255(リーグ18位)、9本塁打を記録して球団初のAクラス入りに貢献した。佐々木信也、長嶋茂雄に次ぐ史上3人目の新人選手による全イニング出場も果たしている。

1963年には一軍打撃コーチを務めた藤村富美男の指導を受け、生涯一度の打率3割を記録してリーグ6位に喰いこみ、オールスターゲームにも出場したほか、入団から6年間で821試合連続出場の記録を持っていた。この記録は1967年の開幕3戦目で止まったが、これに当時の連続試合出場の記録を持っていた飯田徳治は「接戦だったために徳武の記録を忘れていた」と述べるも明らかに不可解な理由で連続出場記録が止まってしまう。同年は移籍入団の城戸則文と併用されて出場機会が減少。

1968年河村保彦との交換トレードで内野手の層の薄い中日ドラゴンズへ移籍した。サンケイ時代は板東英二に強く、当時の首脳陣による「徳武を取ったら板東の勝ち星も少しは増えるだろう」という思惑もあった。同年は伊藤竜彦らに代わるレギュラー三塁手として11本塁打を放つなど活躍した。

1969年島谷金二が入団すると控えに回る。


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