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凡例徳川 頼房
徳川頼房像(徳川ミュージアム蔵)
時代江戸時代前期
生誕慶長8年8月10日(1603年9月15日)
死没寛文元年7月29日(1661年8月23日)
改名鶴千代(幼名)→松平頼房→徳川頼房
別名水戸頼房
諡号威公
墓所瑞龍山墓地
官位正五位下、従四位下・左衛門督・右少将、正四位下・参議・左近衛権少将・左近衛権中将如元、従三位・権中納言、正三位
幕府江戸幕府
主君徳川家康→秀忠→家光→家綱
藩常陸下妻藩主→常陸水戸藩主
氏族徳川氏(将軍家→水戸家)
父母父:徳川家康、母:於万
准母:於勝
兄弟松平信康、亀姫、督姫、結城秀康、秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、松平松千代、松平仙千代、義直、頼宣、頼房
妻御簾中:なし
側室:谷久子(高瀬局)ほか
子松平頼重、光圀、松平頼元、松平頼隆、松平頼利、松平頼雄、松平頼泰、松平頼以、松平房時、雑賀重義、大姫ほか
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徳川 頼房(とくがわ よりふさ)は、常陸水戸藩の初代藩主。徳川家康の十一男で水戸徳川家の祖。 1603年(慶長8年)8月10日、江戸幕府創始者であった初代征夷大将軍徳川家康の十一男として山城国京都の伏見城において生まれる[1]。母は於万。幼名は鶴千代。 1606年(慶長11年)9月23日、3歳にして常陸下妻10万石を、次いで1609年(慶長14年)12月12日、同母兄頼将(頼宣)の駿府転封によって新たに常陸水戸25万石を領したが、幼少のため父である大御所家康の許で育てられた。
生涯