徳川道
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この項目では、近世の山陽道について説明しています。古代・中世などの山陽道については「山陽道」を、現代の国道(京都-西宮)については「国道171号」を、同(西宮以西)については「国道2号」をご覧ください。

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質問の要約:大久保宿について
西国街道の指標

西国街道(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉かいどう)は、江戸時代における街道の1つであり、近世山陽道の別名である。京都から下関、あるいは九州の太宰府までの経路で[1][注 1]律令時代に大路として整備された「山陽道」とほぼ一致する[2][3]

狭義の西国街道として、同街道のうち京都 - 西宮までの区間[4](山崎通[3])、あるいは同じく山陽道として西宮 - 下関の区間を指すこともある[5]。なお、西国路(さいごく〈さいこく・せいごく・せいこく〉じ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)[1][注 2]、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる[6]
目次

1 概要

2 区分

2.1 京都 - 西宮(山崎通)

2.2 西宮 - 下関

2.3 徳川道


3 宿場一覧

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

概要

江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたともいえる。街道には宿場(宿駅)が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。

江戸時代の道路として、当時、西国街道(または西国往還)とも呼ばれた山陽道は、京都の羅城門東寺口)から赤間関(あかまがせき:現在の下関市)に至る道として再整備されたものである。幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇往還(脇街道)に位置付けられることとなった[5][7]。この街道は、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された[8][9]。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路でもあった。これらのことは寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが[8]、寛永12年(1635年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。

なお、呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃まで前述の京都 - 西宮間は山崎街道(唐街道と山崎通り[10])、そして西宮 - 下関間を狭義の西国街道(山陽道[5])、大坂 - 尼崎 - 西宮間は中国街道[注 3]などと呼称される。

長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30か所の馬継ぎを設置したことが記されている。
区分

京都から下関までのうち、以下のように区分されることもある(多少の重複がある)。
京都 - 西宮(山崎通)

西国街道のうち、特に6宿駅、山崎宿大山崎町島本町)・芥川宿高槻市)・郡山宿茨木市)・瀬川宿(箕面市)・昆陽宿(伊丹市)・西宮宿(西宮市)が設けられていた京都から西宮の区間を指して山崎街道(やまさきかいどう)、山崎路(やまさきじ)、山崎通(やまさきのみち)といった。大坂を経由せずに西国へ抜ける脇街道として西国大名の参勤交代に利用され繁栄した。

なお、狭義の西国街道として、この山崎通を西国街道と呼び、西宮以西のルートを山陽街道とすることもある[11]

現在、旧街道と並行するように国道171号が京都 - 神戸(西宮 - 神戸間は国道2号重複)間を結んでいる[3]

さらに山崎通とは別に、京都と大坂を結ぶ街道として京街道 (大坂街道)があり東海道とも連結する。他にも大坂と西宮を結ぶ浜街道(はまかいどう)があり、別名で狭義の中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、中国道(ちゅうごくどう)とも呼ばれた。両者とも現在でも主要な幹線道路のルートとして引き継がれている。
西宮 - 下関

西宮 - 下関までを狭義の西国街道とすることもある。

兵庫県内の打出芦屋)から[12]生田神社神戸元町)の南まで[13]、街道は山側と海側の南北二手に分岐しており、山(北)側のルートを西国本街道(西国街道)、およそ1km離れて並行する海(南)側のルートは西国浜街道(浜街道)と呼ばれた[14][15]

広島藩では「西国街道」と呼称されていたといわれるが[1]、現代において、かつての西国街道やそれに並行する国道・県道等のことを岡山県内や広島県東部では西国街道とは呼ばず、「旧山陽道」と呼ぶ。その理由としては、岡山県岡山市 - 広島県福山市にかけて国道2号が、かつての西国街道に並行したルートを通らず、鴨方往来に並行したルートを辿っているためである。
徳川道

幕末兵庫港開港に伴い、生麦事件のような外国人と大名行列の衝突を避けるために、石屋川(神戸市東灘区)から大蔵谷(明石市)の間を六甲山中を抜けて迂回する西国往還付替道が開削された。兵庫港開港と同日の慶応3年(1867年)12月7日に開通したこの付替道は全長約33kmで[注 4]、総予算額は当時の貨幣で3万6,189両であった。しかし、開通3か月後の慶応4年(1868年)3月に外国人居留地を小迂回する別の道が設けられるとともに、同時期に明治新政府が発足し参勤交代が廃止されたため公式に使われることは一度もないまま、慶応4年(1868年)8月13日付で廃止された。その後この付替道はほとんど使われることなく廃れていったが、近年になり六甲山摩耶山登山道として神戸市内の一部分約4.7km(杣谷登山口 - 杣谷峠 - 桜谷分岐 - 森林植物園東口)[注 5]が再整備され、この区間を地元では徳川道と呼んでいる[16][17][18]。(参考・「神戸事件」)起点: 西国街道より分岐(現在の国道2号線 灘区御影石町[19]付近) - 石屋川 - 阪急六甲駅南・八幡町 - 神戸護国神社 - 杣谷(そまだに)登山口 - (杣谷沿い) - 杣谷峠 - (摩耶山北斜面) - 桜谷分岐 - (生田川沿い) - 森林植物園東門 - 弘陵学園高校正門前 - 北区山田町小部 - 鈴蘭台 - 白川 - 高塚山 - 終点:西国街道より分岐(現在の国道2号線 明石市大蔵谷付近)


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