徳川茂承
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 凡例徳川 茂承
徳川茂承
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕天保15年1月13日1844年3月1日
死没明治39年(1906年8月20日
改名松平孝吉→賢吉→頼久→徳川茂承
戒名慈承院殿剛健日純大居士
墓所東京都大田区池上本門寺長保寺
官位従三位参議左近衛権中将、権中納言正三位
幕府江戸幕府第一次長州征討軍総督、第二次長州征討軍御先手総督
主君徳川家茂慶喜明治天皇
紀州藩
氏族西条松平家紀州徳川家
父母父:松平頼学、母:近藤氏娘・玉蓮院
養父:徳川慶福(家茂)
兄弟靖姫、久松丸、?丸、充千代、粒姫、
悌姫、徳之丞、松平頼英、茂承
養兄弟:松平頼永
妻正室:徳川則子
継室:溝口直溥養女・広子
子長福丸、久子、孝子、保子
養子:頼倫
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日本政治家徳川 茂承とくがわ もちつぐ
生年月日1844年3月1日
出生地 日本 江戸(現:東京都
没年月日 (1906-08-20) 1906年8月20日(62歳没)
死没地 日本 東京府東京市麻布区
(現:東京都港区麻布台
前職和歌山藩知事
称号従一位
勲三等瑞宝章
侯爵
配偶者徳川則子
徳川広子
子女養子・徳川頼倫
親族娘婿・伊達宗陳(貴族院議員)
貴族院議員
在任期間1890年2月 - 1906年8月20日
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徳川 茂承(とくがわ もちつぐ)は、江戸時代末期(幕末)の大名明治時代政治家華族位階勲等爵位従一位勲三等侯爵紀州藩14代(最後)藩主、同藩初代藩知事、貴族院議員など歴任。紀州藩8代藩主・徳川重倫の実弟で伊予西条藩6代藩主となった松平頼謙の曾孫。初名は松平 頼久(まつだいら よりひさ)。
生涯

天保15年(1844年)1月13日、西条藩9代藩主・松平頼学の六男(七男との説もある[1])として西条藩江戸上屋敷で誕生。幼名は孝吉。弘化3年(1846年)6月24日、幼名を賢吉と改める。

安政5年(1858年)に紀州藩13代藩主・慶福が徳川家茂として14代将軍に就任すると、幕命により同年6月25日に紀州徳川家家督を継いだ[2]。翌安政6年(1859年)10月13日には元服し、家茂の偏諱を授かって頼久から茂承(もちつぐ)と改めた。文久2年(1862年)に上洛した際には孝明天皇に拝謁して天盃を賜っている。家茂の死後、茂承を将軍に推挙する動きもあったが、固辞して徳川慶喜を推した[3]

長州戦争では第二次征長軍の先鋒総督に任命され、附家老安藤直裕を先鋒総督名代とし、内政においては御用取次に登用した津田出藩政改革を行わせた。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていたが、御三家の一つである上、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上[4]した上、勅命により京都警備の一翼を担った。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。

明治2年(1869年)の版籍奉還によって和歌山藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県東京府に移住する。紀州藩主としての治世は13年1か月であり、この間の江戸参府1回、紀州帰国2回、紀州在国の通算は4年10か月であった[5]

明治6年(1873年)に皇居として使用されていた旧江戸城西の丸御殿が焼失した際には、旧紀州藩中屋敷(現在の赤坂御用地)を皇室に献納したことにより、金2万円を賞賜された。

明治政府が打ち出した徴兵令秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、明治11年(1878年)3月に自ら10万円を拠出し、旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立した。買収した田畑からの収入を用いて徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。

明治17年(1884年7月7日華族令により侯爵を叙爵し、明治23年(1890年)2月から貴族院侯爵議員を務める[6]日清戦争後、勲四等旭日小綬章を受章した。明治39年(1906年)8月、麻疹肺炎に罹り療養していたが、尿毒症を併発し、同年8月20日午後3時50分に心臓麻痺のため東京市麻布区飯倉町六丁目14番地(現在の東京都港区麻布台一丁目)の本邸で死去した。享年63(満62歳没)。墓所は池上本門寺。菩提寺の長保寺には遺髪が埋葬された。家督は婿養子頼倫田安慶頼の六男)が継いだ。
逸話

2歳下の家茂とは気が合ったらしく、家茂が最も親しく交わりを結んでいたのが茂承であったのと同時に、茂承も家茂を慕っていたという。茂承が
第二次長州征討で御先手総督として芸州口に出陣する際には大坂城の御座の間に迎え入れられ、家茂から直々に采配陣羽織を授けられた後、人払いして2人だけで対面した。これが家茂との今生の別れとなった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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