本来の表記は「コ川義恭」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
徳川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月18日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は日本の美術研究者、装幀家。 尾張徳川家の分家の当主である男爵・徳川義恕の四男。母方の祖父・津軽承昭は弘前藩主。長兄・徳川義寛は昭和天皇の侍従・侍従長。姉・祥子の夫は北白川宮永久王。次兄・義孝(津軽英麿の養子となる)の娘は、常陸宮正仁親王妃華子で、義恭の姪にあたる。 1942年(昭和17年)、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。同年7月1日、三島由紀夫や東文彦と共に同人誌「赤絵」を創刊。同誌および、1944年(昭和19年)10月発行の三島の処女作品集『花ざかりの森』(七丈書院)の装幀を担当した。 著書は1941年(昭和16年)に私家版の編著『暢美』を、1948年(昭和23年)に『宗達の水墨画』(座右宝刊行会(座右寳叢書))がある。 亜急性細菌性心内膜炎で夭折。享年28。三島は人となりを偲んで、短篇小説『貴顕』[1]を書いている。 三島との往復書簡が、数通だが『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、のち新潮文庫)に収められている。2010年(平成22年)に遺族宅で、新たに三島からの手紙9通(1942?1944年)が発見された。
人物
脚注^ 『真夏の死―自選短編集』(新潮文庫、1970年。改版1996年)、ほかに『決定版 三島由紀夫全集第19巻・短編5』(新潮社、2002年)に所収。
参考文献
『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)
『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
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更新日時:2018年2月4日(日)14:26
取得日時:2019/01/03 05:02