徳川綱豊
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例徳川家宣
徳川家宣像(徳川記念財団蔵)
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文2年4月25日1662年6月11日
死没正徳2年10月14日1712年11月12日
改名新見左近、松平虎松(幼名)、徳川綱豊、家宣
別名甲府宰相
諡号文昭院
戒名文昭院殿贈正一位大相国公
文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士
墓所東京都港区の三縁山広度院増上寺
官位従三位左近衛権中将兼左近衛将監、参議正三位権中納言従二位権大納言正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍、贈正一位太政大臣
幕府江戸幕府 6代征夷大将軍(在任:1709年 - 1712年)
甲斐甲府藩主(在任:延宝6年(1678年)- 宝永元年(1704年
氏族徳川氏甲府徳川家徳川将軍家
新見氏
父母父:徳川綱重、母:長昌院(お保良)
養父:新見正信、徳川綱吉
兄弟家宣、松平清武、牛丸?[1]
妻正室:近衛熙子
側室:お喜世の方お古牟の方お須免の方斎宮
豊姫夢月院家千代大五郎家継虎吉
養女:政姫(近衛家熙の娘)
テンプレートを表示
東京都港区芝公園の増上寺にある家宣、同夫人の宝塔(2019年11月4日撮影)

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。

甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。
目次

1 生涯

2 人物・逸話

3 官歴

4 系譜

5 家宣の容姿

6 偏諱を受けた人物

7 徳川家宣が登場する作品

8 脚注

生涯

寛文2年4月25日(1662年6月11日)、徳川綱重長男として、江戸根津邸にて生まれる。父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中・お保良(長昌院)に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。生母は寛文4年(1664年)に死去している。

9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱偏諱を受けて綱豊と名乗った。延宝6年(1678年)10月25日に父・綱重が死去し、17歳で家督を継承し、祖母・順性院に育てられた。

延宝8年(1680年)、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟である上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。

綱吉にも男子がおらず、綱吉の娘婿の紀州藩徳川綱教という後継候補も存在したが、3代将軍徳川家光の孫であることもあって将軍世嗣に正式に定まり、「家宣」と改名して綱吉の養子となり江戸城西の丸に入ったのは宝永元年12月5日1704年12月31日)、家宣が43歳の時だった。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。

宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、宝永通宝の流通と酒税[2] とを廃止。生類憐れみの令も一部を残し順次廃止させた。ほか、柳沢吉保の辞職により側用人間部詮房、学者として新井白石らを登用して、綱吉時代から始まった文治政治を推進し、琉球李氏朝鮮との外交や宝永令の発布、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革を試みた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef