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出典検索?: "徳川綱誠"
凡例徳川 綱誠
時代江戸時代前期 - 中期
生誕承応元年8月2日(1652年9月4日)
死没元禄12年6月5日(1699年7月1日)
改名五郎太(幼名)→綱義(初名)→綱誠
別名字:子明
諡号誠公
戒名泰心院正譽徴應
墓所尾張国建中寺
官位従四位下右兵衛督、従三位中将、参議、権中納言
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉
藩尾張藩藩主
氏族尾張徳川家
父母父:徳川光友、母:霊仙院(徳川家光長女)
兄弟綱誠、松平義行、松平義昌、松平康永、馨香院、松平友重、松平友著ら11男6女
妻正室:新君(瑩珠院)(広幡忠幸娘)
側室:13人
子吉通、継友、松平義孝、松平通温、宗春、喜知姫、松姫ら22男18女
養子:馨香院
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徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ[1]/つななり[2])は、江戸時代前期の大名。尾張藩3代藩主。はじめ綱義といった[1]。字は子明[1]。
新陰流第7世。昭和天皇は雲孫にあたる。 承応元年(1652年)8月2日、2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男[注 1]として市ヶ谷邸で誕生した。母は徳川家光の長女・霊仙院(千代姫)[1]。幼名は五郎太[1]。 明暦3年(1657年)4月、元服し、従四位下右兵衛督に叙任された[1]。叔父の4代将軍・徳川家綱と父・光義(光友の前名)より1字ずつ授かり綱義に改名する。義の文字は、源氏の祖八幡太郎源義家にちなむ名であり、尾張徳川家御連枝の四谷松平家(高須藩)・大久保松平家(梁川藩)の通名でもある。五代将軍に綱吉が就任したことにより、同音を避けるために綱誠に改名する。 元禄6年(1693年)4月、父・光友の跡を継いだ[1]。同年、権中納言となる[1]。 綱誠の治世は父の陰に隠れ、あまり目立たない。幼少より血統の良さと英明の評判が高く、文教に力を注いだのが知られる。藩領の地誌である『尾張風土記』の編纂を元禄8年(1698年)に命じたが、綱誠の病没により未完成のまま草稿が残り、後の宝暦2年(1752年)に完成する『張州府誌』の母体となった。 元禄12年6月5日(1699年7月1日)、江戸市ヶ谷邸で死去した[1]。享年48[1]。草苺を食し食あたりしたのが死因と言われている。綱誠は生前より大食漢、食道楽として知られていた。 尾張国建中寺に葬られ、誠公と諡された[1]。法名は泰心院正譽徴應[1]。 十男・吉通が跡を継いだ[1]。 ※日付=旧暦
生涯
官職および位階等の履歴
明暦3年(1657年)4月5日、元服。将軍・徳川家綱の偏諱を授かり綱義と名乗る。同日、従四位下に叙し、右兵衛督に任官。苗字を(徳川家の祖先とされる)世良田と称する。
寛文3年(1663年)12月27日、従三位右近衛権中将に昇任
延宝8年(1680年)7月1日、名を綱誠と改める(叔父である徳川綱吉が将軍位に就位し、同音の名を改称)。『尾藩世記』四に「誠」の文字に対して「ノブ」とフリガナが打たれている。
元禄4年(1691年)3月26日、参議に補任。
元禄6年(1693年)
4月27日、尾張国名古屋藩主となる。
12月1日、正三位に昇叙し、権中納言に転任。
元禄12年(1699年)6月5日、薨去。贈従二位権大納言。墓所は名古屋市筒井の徳興山建中寺。