凡例徳川 秀忠
徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕天正7年4月7日(1579年5月2日)[1]
死没寛永9年1月24日(1632年3月14日)[1]
改名長松(長丸)、竹千代(幼名)、秀忠
別名江戸中納言、江戸右大将、相国様
戒名台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士
墓所増上寺
官位従五位下・侍従、蔵人頭、正五位下
武蔵守、従四位下、正四位下
右近衛少将、参議、右近衛中将、
従三位・権中納言、権大納言、従二位
右近衛大将、正二位・内大臣、
征夷大将軍、従一位・右大臣、太政大臣、贈正一位
幕府江戸幕府 第2代征夷大将軍
(在任1605年 - 1623年)
主君織田信長→織田信忠→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇
氏族徳川将軍家
父母父:徳川家康、母:西郷局
養母:阿茶局
兄弟松平信康、亀姫、督姫、結城秀康、秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、松千代、仙千代、松姫、義直、頼宣、頼房、市姫
妻正室:小姫
御台所(継室):浅井江
子千姫、珠姫、長丸、勝姫、初姫、家光、忠長、和姫、保科正之ほか養女多数
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徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代将軍(在職:1605年 - 1623年)。
生涯
出生から後継者になるまで秀忠が産湯を使ったと伝わる井戸
天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の三男として遠江国浜松城に誕生する[2]。母は、西郷局(戸塚忠春の娘、伯父・西郷清員の養女)[3]。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町時代初期には三河国守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる[4]。
秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子(徳川家や本願寺の認識、秀吉側の認識は人質)として出され、後に結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。
長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である朝日姫(旭姫)を家康に嫁がせることになった時である。同時代の史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」・「長丸を秀吉の人質としないこと」・「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられている[5]。
天正18年(1590年)1月7日[6]、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛した。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており[7]、更に上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている[8][5]。