徳川治保
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 凡例徳川治保
時代江戸時代中期 - 後期
生誕寛延4年8月16日1751年10月5日
死没文化2年11月1日1805年12月21日[1]
改名英之允、鶴千代、治保
諡号文公
戒名興徳院殿大蓬社猷譽仁岳
墓所瑞龍山
官位従四位上左衛門督正四位下左近衛権少将従三位右近衛権中将参議権中納言、贈正二位
幕府江戸幕府
主君徳川家治家斉
常陸国水戸藩
氏族水戸徳川家
父母父:徳川宗翰、母:美衛(智仙院)
嫡母:一条郁子(絢君)
兄弟治保、松平頼図、松平頼救、松平保受、松平保福、中山信敬
御簾中一条溢子(八代君)
側室:佐山、富浦
治紀松平義和土屋彦直、述姫、雅姫
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徳川 治保(とくがわ はるもり)は、常陸国水戸藩の第6代藩主。水戸藩中興の祖といわれる。
生涯

寛延4年(1751年)8月16日、徳川宗翰の長男として生まれる。15代将軍徳川慶喜の曽祖父にあたる。母は榊原篤郷の娘・美衛(智仙院)[2]。幼名は英之允、後に鶴千代。

明和3年(1766年)、父の死去により16歳で家督を継ぐ。文化2年(1805年)の死去まで40年間におよぶ治世は、初代・頼房に次ぐ長さである。しかし3代続けての若年での藩主就任であり、しかも亡父の改革が挫折したことによる混乱などもあって、藩の財政はさらに悪化しており、百姓一揆にも悩まされた。安永7年(1778年)には、幕府から財政立て直しの非常措置を命じられている。これを受けていくつかの改革が行われたが、天明3年(1783年)に始まる天明の大飢饉により、一層の改革を求められることとなった。

天明7年(1787年)、他の御三家御三卿一橋家当主・徳川治済とともに、田沼意次一派の粛清と松平定信老中就任を推進した。

江戸定府が水戸藩主の定めであったが、寛政2年(1790年)、藩政改革のために就任24年目にして初めて水戸に入った。その帰国費用も、領内へ御用金を課すことでようやく調達された。半年の水戸在城ののち、翌年に江戸へ帰ったが、その後の寛政期に多くの改革が行われた。幕府の寛政の改革の影響を受けたものでもある。

藩財政再建を主とした藩政改革を断行し、寛政5年(1793年)には藩士の禄の半知借上(給料50%減)などの緊急策を実施するとともに、献上金をしたものを郷士として取り立てる制度も実施した。この頃郷士となった者は、献金以外も含めて20人といわれる。また、人口減少で荒れた農村の復興策として、3人以上の子供のいる農民にを支給する制度を拡充したり、間引き防止のために妊婦改め・出産届などを厳重にした。寛政11年(1799年)には、郡奉行の数を増やすなど郡制改革も実施している。

また同じく寛政11年に、水戸城下の振興策として消費促進の政策をとった。異母弟である付家老中山信敬が水戸に下向して実行したというこの政策は「江戸仕掛け」と呼ばれた。春秋の馬市の開催、江戸芝居や相撲興行などを行い、盛んに消費を促し「奢侈、華麗な姿を見るとほとんど江戸のようである」ということから名づけられた。しかし、倹約第一の政策を進めていた幕府の命により、1年もたたずに中止された。そのほか、鋳銭事業や製紙事業、タバコこんにゃくなどの殖産興業政策に尽力している。

さらに、2代藩主・光圀にならって学問奨励にも尽力した。停滞していた『大日本史』編纂事業を軌道に乗せ、治保自ら学者とともに、毎朝『大日本史』の校訂作業にあたったという。また藩士に対し、城内で彰考館の学者による講義を始めたり、学力試験を試みるなど、学問重視の姿勢を明らかにしている。町人だった藤田幽谷や農民の長久保赤水などを、その学識ゆえに藩士に取り立てている。加えて、立原翠軒彰考館の総裁3人を政治顧問として、実際の政治に学者の意見を反映させようとした。こうした空気のもと、翠軒やその門下の幽谷などが、農村復興の政策や蝦夷地での対ロシア政策など、藩内外の問題にも積極的に発言するようになっていく。

治保自身も優れた文人であり、『文公文集』や『尚古閣雑録』など著書が多数ある。

文化2年(1805年11月1日に死去した。享年55(満54歳没)。諡号は文公。跡を嫡男の治紀が継いだ。
官歴

※日付=明治5年12月2日までは旧暦。

1751年寛延4年)

8月16日 - 誕生。英之允を称す。

12月 - 鶴千代に改める。


1762年宝暦12年)閏4月18日 - 元服し、将軍徳川家治偏諱を授かり治保と名乗り、従四位上に叙し、左衛門督に任官。

1763年(宝暦13年)12月15日 - 正四位下に昇叙し、左近衛権少将を兼任。

1766年明和3年)

3月25日 - 水戸徳川家の家督を相続し、藩主となる。

10月5日 - 従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。


1768年(明和5年)12月1日 - 参議に補任。

1795年寛政7年)12月11日 - 権中納言に転任。

1805年文化2年)11月1日 - 薨去。享年55(満54歳没)。諡号は源文公、法名は興徳院殿大蓬社猷譽仁岳。墓所は茨城県常陸太田市瑞龍山

1907年明治40年)11月15日 - 贈正二位

家系

父:
徳川宗翰

母:美衛(智仙院) - 榊原篤郷の娘

嫡母:一条郁子(絢君) - 一条兼香の次女

御簾中:一条溢子(八代君) - 一条道香の長女

長男:治紀 - 第7代水戸藩主


側室:佐山 - 前田政英の娘

長女:述姫 - 松平頼起

次女:雅姫 - 松平頼慎

次男:松平義和(保右) - 高須藩


側室:富浦 (石黒氏)

三男:土屋彦直(拾三郎)- 土浦藩

三女:郷姫

四女:徴姫

徳川慶喜(15代将軍)と徳川宗家に最も近い男系共通祖先にあたり、幕末から明治維新期の尾張徳川家、幕末以降の一橋徳川家清水徳川家の当主は治保の子孫が就いている。
関連作品
テレビドラマ

殿さま風来坊隠れ旅』最終話(1994年、テレビ東京、演:深江卓次

脚注
注釈
出典^ 浄土宗全書
^ 徳潤遺事


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