江戸幕府
Tokugawa Shogunate
中央政府
徳川家家紋・徳川葵
概要
創設年慶長8年(1603年)
解散年慶応3年(1867年)
対象国 日本
政庁所在地武蔵国豊島郡江戸(江戸城)
(現 : 東京都千代田区)
代表征夷大将軍
(徳川氏が世襲)
大御所
(前将軍の尊称)
機関
大名役大老(臨時)
老中
側用人
寺社奉行
若年寄
奏者番
京都所司代
大坂城代
老中支配側衆
高家
留守居
大目付
町奉行
勘定奉行
城代
奉行(遠国奉行)
大番(御侍衆)等
若年寄支配書院番
小姓組
小十人
新番(新侍衆また若侍衆)
目付(幕府および全ての諸藩の監査役、監察官) 等
備考
1868年の王政復古の大号令により幕府が廃されたため、江戸幕府は日本最後の武家政権となった。
江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。
徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。
江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。 徳川家の当主が従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍に補されて260余りの武家大名と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「公儀」・「公辺」などと漠然と呼ばれていた[1]。 幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。 徳川将軍家が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、鎌倉幕府及び室町幕府に続く武家政権である[2]。 幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である藩で構成されていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行、郡代・代官などの地方官を設置した。 江戸幕府の支配では、将軍と大名の主従関係を確認するための軍役として、各藩大名に対して参勤交代や、築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。 なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。
概要
幕藩体制初代将軍・徳川家康