徳川慶喜
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徳川義宣」とは別人です。

 凡例徳川 慶喜
征夷大将軍在任時の徳川慶喜
時代江戸時代末期 - 大正時代初期
生誕天保8年9月29日1837年10月28日
死没大正2年(1913年11月22日
改名七郎麻呂[注釈 1]→松平昭致→徳川慶喜
別名字:子邦、号:興山
通称:一橋慶喜
戒名なし
墓所谷中霊園
官位(江戸時代)従三位左近衛中将刑部卿参議権中納言正二位大納言兼右近衛大将、征夷大将軍内大臣→官位剥奪
(明治以降)従四位正二位従一位
幕府江戸幕府 第15代征夷大将軍
(在職:1867年 - 1868年
主君徳川家慶家定家茂孝明天皇明治天皇
氏族徳川氏水戸家一橋家将軍家別家
父母父:徳川斉昭、母:吉子女王有栖川宮織仁親王第12王女)[注釈 2]
養父:徳川昌丸徳川家茂
兄弟徳川慶篤池田慶徳、慶喜、松平直侯池田茂政松平武聰徳川昭武喜連川縄氏松平昭訓徳川貞子松平忠和土屋挙直松平喜徳松平頼之
妻正室:一条美賀子
側室:一色須賀新村信中根幸
池田仲博慶久勝精、鏡子、蜂須賀筆子 その他
養子:茂栄家達貞子(異母妹)
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徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:コ川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代日本政治家華族位階勲等爵位従一位勲一等公爵。養父は徳川家茂、養祖父は徳川家定。

天保8年(1837年9月29日水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。将軍後見職禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。歴史上最後征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年11月22日に死去。
生涯
幼年期

尊敬する徳川光圀の教育方針を踏襲した斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7か月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。

この間、藩校弘道館会沢正志斎らに学問武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・徳川慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
一橋家相続

老中阿部正弘が「昭致を御三卿一橋家の世嗣としたい」との将軍・徳川家慶の思召(意向)を弘化4年(1847年)8月1日に水戸藩へ伝達。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋徳川家を相続。12月1日元服し、家慶から偏諱を賜り徳川慶喜と名乗る。家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。
将軍継嗣問題詳細は「将軍継嗣問題」を参照

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥南紀派が対立した。

安政4年6月17日に阿部正弘、安政5年7月16日に島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老に就任した井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。

同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約に調印。6月23日、慶喜は登城し直弼を詰問し、7月5日に登城停止を命じられた。


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