徳川家茂
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 凡例徳川 家茂 / 徳川 慶福
徳川家茂像(川村清雄作)
時代江戸時代後期 - 江戸時代末期
生誕弘化3年閏5月24日1846年7月17日
死没慶応2年7月20日1866年8月29日
改名菊千代→慶福→家茂
別名徳川慶福
戒名昭徳院殿光蓮社澤譽道雅大居士
墓所三縁山広度院増上寺東京都港区
官位従三位左近衛権中将
正二位権大納言内大臣
右近衛大将
従一位右大臣、贈正一位太政大臣
幕府江戸幕府第14代征夷大将軍
(在任:安政5年(1858年)- 慶応2年(1866年
紀伊国和歌山藩
(在任:嘉永2年(1849年)- 安政5年(1858年)
氏族徳川氏(紀伊家将軍家
父母父:徳川斉順
母:松平操子
養父:徳川斉彊徳川家定
養母:天璋院
兄弟家茂、菊姫、庸姫、伊曾姫
妻御台所:和宮
子養子:茂承 (紀伊藩継嗣)、慶喜 (将軍家継嗣)
猶子:尊秀入道親王
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徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、江戸幕府第14代将軍(在任:1858年 - 1866年)。初めは第12代将軍・徳川家慶偏諱を受け、慶福(よしとみ)と名乗っていた。

実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は御三家和歌山藩第13代藩主であった。

徳川斉順(清水徳川家および紀伊徳川家の当主)の嫡男[注釈 1]であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。祖父は第11代将軍徳川家斉、祖母は妙操院御台所孝明天皇の皇妹・親子内親王(静寛院宮)。第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川家一門の中で将軍家に最も近い血筋であることを根拠に[注釈 2]大老譜代筆頭の彦根藩井伊直弼南紀派の支持を受けて13歳で第14代将軍となった。
生涯

弘化3年(1846年)閏5月24日、16日前に死去した徳川斉順の次男として、江戸の和歌山藩邸(現:東京都港区)で誕生した。生母は家臣松平晋の娘操子。なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は文政12年(1830年)に死産している(南紀徳川史第二冊)。幼名は菊千代(きくちよ)。嘉永2年(1849年)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊が死去したため、その養子として家督を4歳で継いだ。嘉永4年(1851年)に元服し、当時の将軍(第12代将軍)・徳川家慶から1字を賜い慶福(よしとみ)と名乗り、同時に常陸介に任官、従三位に叙位された。

幼少故に当初は隠居の元藩主徳川治宝が補佐したが、治宝と家老の山中俊信の死去後は徳川家慶の側室を妹に持つ付家老水野忠央のいわゆる江戸派が実権を握り、伊達千広(伊達宗広)陸奥宗光の父)をはじめとする治宝側近の藩政改革派が弾圧された[1]

和歌山藩主としての治世は9年2か月であり、この間の江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も和歌山帰国もなかった[2]

安政5年(1858年)、将軍後継問題で慶福を推す派閥「南紀派」が「一橋派」との政治抗争の末に勝利し、直後に第13代将軍・徳川家定も死去したために慶福が第14代将軍となった。慶福改め家茂はこの時13歳という若年であったが、第13代将軍・徳川家定の従兄弟に当たり、前将軍の最近親ということから、血縁を徳川家康まで遡らなくてはならない一橋慶喜を抑えて将軍に就任した。しかし、文久2年(1862年)までは田安慶頼[注釈 3]、その後は慶喜[注釈 4]が「将軍後見職」に就いていたため、その権力は抑制されていた。また、この将軍宣下の際、それまでは新将軍が上座で天皇勅使が下座であったが、尊王の世情を反映して逆に改められた。

文久2年(1862年)に和宮(親子)と結婚した。和宮は熾仁親王と婚約していたが、幕府の公武合体構想からの要請により熾仁親王との婚約を破棄し、和宮は家茂に降嫁した[3]。文久3年(1863年)、老中水野忠精板倉勝静若年寄田沼意尊稲葉正巳らが供奉し、3千人を率いて将軍としては229年振りとなる上洛を行った。3月7日に参内し、義兄に当たる孝明天皇攘夷を約束した。また、この際に天皇に対して政務委任の勅命への謝辞を述べたが、これは18世紀末から要人や学者の間では言われてきたものの概念的な考えに過ぎなかった大政委任が、朝幕関係の中で初めて公認化・制度化されたものであった[4]。天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。その後、天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定であったが、これを病と称して欠席する。源氏所縁の神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたともされている。


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