徳川家斉
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 凡例徳川 家斉
徳川家斉像(徳川記念財団蔵)
時代江戸時代後期(大御所時代)
生誕安永2年10月5日1773年11月18日
死没天保12年1月7日1841年2月27日
改名豊千代(幼名)→家斉
諡号文恭院
墓所東叡山寛永寺
官位従二位権大納言正二位内大臣
右近衛大将右大臣
従一位左大臣左近衛大将太政大臣
正一位
幕府江戸幕府 第11代征夷大将軍
(在任:1787年 - 1837年
氏族一橋徳川家徳川将軍家
父母父:徳川治済
母:岩本富子
養父:徳川家治
兄弟家斉、治国黒田斉隆、雄之助、斉匡斉敦松平義居、久之助、本之丞
正室近衛寔子
側室:多数
家慶敦之助斉順虎千代斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣他多数
猶子:尊超入道親王
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徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代将軍(在任:1787年 - 1837年)。8代将軍吉宗の曾孫。10代将軍家治は養父かつ従伯父(実父のいとこ)にあたる。
生涯
第11代将軍就任

安永2年(1773年)10月5日、一橋家当主・一橋治済の長男として生まれる。母は旗本岩本正利の娘・富子。

安永8年(1779年)に第10代将軍・徳川家治の世嗣・徳川家基の急死後、父と田沼意次の後継工作、ならびに家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、天明元年(1781年)閏5月に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。

天明6年(1786年)家治が50歳で病死したため、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。
寛政の改革詳細は「寛政の改革」を参照

将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。

寛政元年(1789年)、近衛寔子島津重豪の娘、近衛経熙の養女)と結婚している。

寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、さらに尊号一件なども重なって、次第に家斉と定信は対立するようになった。寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。

ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。家斉は定信の下で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。これを戸田氏教本多忠籌ら定信が登用した老中たちが支える形で定信の政策を継続していくことになる。このため彼らは寛政の遺老と呼ばれた。
大御所時代詳細は「大御所時代」を参照

文化14年(1817年)に松平信明は病死した。他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から、家斉は側用人水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。文政10年(1827年)太政在院年数が40年になったため自分から朝廷に働きかけるようになり太政大臣に任じられる。天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった。天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。
最晩年と最期

最晩年は老中の間部詮勝堀田正睦田沼意正(意次の四男)を重用している。天保12年(1841年)閏1月7日に死去した。享年69(満67歳没)。

栄華を極めた家斉であったが、最期は放置されたままに息を引き取ったと伝えられ、侍医長・吉田成方院は責任を問われ処罰された(『井関隆子日記』)。なお、死亡日は『井関隆子日記』には閏1月7日と記されているが、『続徳川実紀』は「閏1月30日」としており、幕府が死を秘匿したと考えられている。

家斉の死後、その側近政治は幕政の実権を握った水野忠邦に否定されて、旗本若年寄ら数人が罷免・左遷される。そして間部詮勝堀田正睦などの側近は忠邦と対立し、老中や幕府の役職を辞任する事態となった。
官歴

※日付=旧暦

天明元年(1781年)閏5月18日、将軍後継者となる。

天明2年(1782年)4月3日、元服し、家斉と名乗る。従二位権大納言に叙任。

天明7年(1787年)4月15日、正二位内大臣に昇進し、右近衛大将を兼ねる。併せて征夷大将軍源氏長者宣下。

文化13年(1816年)4月2日、右大臣に昇進。


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