徳川家慶
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 凡例徳川 家慶
徳川家慶像(徳川記念財団蔵、狩野雅信筆)
時代江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕寛政5年5月14日1793年6月22日
死没嘉永6年6月22日1853年7月27日)(60歳没)
改名敏次郎(幼名)→家慶
諡号慎徳院
戒名慎徳院殿天蓮社順譽道仁大居士
墓所東京都港区の三縁山広度院増上寺
官位権大納言右近衛大将内大臣従一位左近衛大将左大臣、贈正一位太政大臣
幕府江戸幕府 第12代征夷大将軍
氏族徳川将軍家
父母父:徳川家斉
母:押田照子
兄弟竹千代、家慶、敦之助斉順虎千代斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣他多数
妻正室:楽宮喬子女王
側室:他多数
家定慶昌暉姫 多数
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徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代将軍(在職:1837年 - 1853年)。徳川家茂は養孫、徳川慶喜は養曾孫、徳川家達は養玄孫、徳川家正は養来孫、徳川恒孝は養仍孫、徳川家広は養雲孫である。
生涯

寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生まれる。母は幕臣押田敏勝の娘・照子。長兄である竹千代が早世したために将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 家斉の死後、家慶は四男・家定を将軍継嗣に決定した。また老中首座・水野忠邦を重用し、家斉派を粛清して天保の改革を行わせた。忠邦は幕府財政再建に乗り出し、諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また家慶政権期には言論統制も行なわれ、高野長英渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧した。詳細は「蛮社の獄#モリソン号事件」を参照「アヘン戦争#日本への影響」も参照

天保14年(1843年)、幕府が江戸・大坂周辺の大名旗本領の幕府直轄領編入を目的とした上知令を発令すると猛烈な反発を受けて、家慶の判断で翌年にその撤回を余儀なくされ忠邦は失脚して天保の改革は挫折する[注 1]

その後、家慶は土井利位阿部正弘筒井政憲らに政治を委ね、お由羅騒動に介入して薩摩藩主・島津斉興を隠居させたり、水戸藩主・徳川斉昭に隠居謹慎を命じたりしている。また斉昭の七男・七郎磨(後の徳川慶喜)に一橋家を相続させている。

オランダ国王ウィレム2世の開国勧告を謝絶し、阿部正弘の意見を容れて海防掛を常設させるなどしていた家慶だったが、嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に薨去。享年61。暑気当たりで倒れた(熱中症による心不全)ことが死の原因と言われている[1]

浦賀に停泊したモリソン号(1837年)

アヘン戦争 - 江蘇省鎮江之戰(英語版)(1842年7月21日)

オランダ国王ウィレム2世 エルミタージュ美術館

シーボルトが起草したウィレム2世の勧告書(1844年2月15日付)

ウィレム2世の国書と献上品を家慶に齎した使節

杉田成卿 - 杉田玄白孫。ウィレム2世の国書ならびにペリーからの親書を和訳

幕閣が家慶の名でウィレム2世に返送した書状(1845年7月4日付)

木版画のペリー(1854年ごろ)

官途

※日付は旧暦東京都港区芝公園の増上寺にある家慶の宝塔(2019年11月4日撮影)

寛政9年(1797年)3月1日、従二位権大納言に叙任。元服し、家慶を名乗る。

文化13年(1816年)4月2日、右近衛大将を兼ねる。

文政5年(1822年)3月5日、正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将元の如し。

文政10年(1827年)3月18日、従一位に昇叙。

天保8年(1837年)9月2日、左大臣に転任し、征夷大将軍源氏長者宣下。右近衛大将は同日、世子徳川家定に与奪。

嘉永6年(1853年)6月22日、死去。8月21日、贈正一位太政大臣

※将軍継嗣の段階で従一位に叙せられたのは家慶が最初である。また、将軍継嗣の段階で内大臣に任官したのは徳川秀忠以来の出来事である。徳川家斉が将軍在職のまま太政大臣に叙任されるという前代未聞の異例の人事が行われた結果、世子であった家慶・孫の家定の官位も異例の高位のものとなった。
人物

松平春嶽(慶永)は『逸事史補』で家慶を「凡庸の人」と評している。家臣の意見を聞いても「そうせい」と言うのみであったことから、「そうせい様」と渾名された。確かに家慶は自ら政治を行なうことは乏しかったが、人材を見る眼と登用する時期を見極める時勢の判断は優れていた。家斉の50年の長きにわたる治世で幕政が腐敗、弛緩したが、父の死後その腹心である三悪人らを一掃して水野に天保の改革を実行させ、改革が2年で失敗すると、その後任に当時24歳の阿部正弘を抜擢するなど、電光石火の人事を断行しており、また庄内藩などに対する三方領知替えの中止(天保義民事件)を決断するなど、将軍としてある程度の指導力も発揮していることなどから、暗君とは言い切れない側面もあった[2]。『続徳川実紀』では「性質沈静謹粛にして、才良にましまし」と評されている。

子女は家定慶昌ら14男13女を儲けたが、ほとんどが早世し、20歳を超えて生きたのは家定だけであった。さらに家定も病弱で実子を残さなかったため、家慶の血筋は断絶している。家定の障害を治そうと、今日でいうリハビリをやらせていたが、思わしい効果は得られなかった[1]


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