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凡例徳川 家康
徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文11年12月26日(1543年1月31日)[1][2]
死没元和2年4月17日(1616年6月1日)[3][4]
享年75(満74歳没)
改名松平竹千代(幼名)→ 元信(初名) → 元康 → 家康 → 徳川家康
別名仮名:次郎三郎、蔵人佐
敬称:大御所(将軍辞任後)
尊称:神君(死後)[5]
神号東照大権現
戒名安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士
墓所久能山東照宮
日光東照宮
大樹寺
高野山
官位従五位下、三河守、左京大夫、従五位上、侍従、正五位下、従四位下、右近衛権少将、従四位上、正四位下、左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、正三位、従二位、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、正二位、内大臣、従一位、右大臣、征夷大将軍、太政大臣、源氏長者、贈正一位
幕府江戸幕府 初代征夷大将軍
(在任1603年 - 1605年)
主君今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 → 織田信長[6]→ 豊臣秀吉 → 豊臣秀頼→後陽成天皇→後水尾天皇
氏族松平氏 → 徳川氏
父母父:松平広忠
母:水野大子(伝通院)
継父:久松俊勝[7]
兄弟家康、松平家元?、内藤信成?、樵臆恵最?、松平忠政、市場姫、矢田姫[8]
異父弟:松平康元、松平康俊、松平定勝
異母姉妹:多劫姫
妻正室:築山殿
継室:朝日姫
側室:雲光院ほか
子松平信康、亀姫、督姫、結城秀康、秀忠、松平忠吉、振姫、武田信吉、松平忠輝、義直、頼宣、頼房など
花押
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徳川 家康(とくがわ いえやす、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:コ川 家康)は、戦国時代から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名、江戸幕府初代将軍。徳川氏(将軍家、御三家など)の祖。三英傑の1人に数えられる。 家系は三河国の国人土豪・松平氏の内、安祥松平家5代当主。幼名は竹千代[5]。幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごし[5]、諱は元服時に今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と改め、通称は当初次郎三郎、元康に改名した際に蔵人佐を用いている[9]。 当初は今川氏の配下として活動するが、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討死したのを機に今川氏から独立して家康に改諱し、織田信長に接近して清洲同盟を結ぶ[5]。永禄9年12月29日(1567年2月18日)には徳川氏に改姓した。本拠の三河国を平定後は信長に協調、従属しながら今川氏や武田氏など周辺大名と抗争を展開、勝利して版図を遠江国・駿河国にまで広げていく。天正10年(1582年)には本能寺の変での信長死亡後に発生した天正壬午の乱も制して甲斐国・信濃国を手中に収め[5]、5か国を領有する大大名となった。 信長没後に織田政権で勢力を伸張した豊臣秀吉とは小牧・長久手の戦いで対峙するが[5]、後に秀吉に臣従し、小田原征伐後は後北条氏の旧領関東8か国への転封を命ぜられ、豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる[5]。 秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍を率いて西軍に勝利し天下人の地位を獲得、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ、江戸幕府が中心となって日本を統治する幕藩体制の礎を築いた。
概要