徳川家康の影武者説(とくがわいえやすのかげむしゃせつ)は、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説(別人説)。入れ替わった段階をいつと捉えるかによって説の内容は異なるが、いずれの説も史料批判の誤りが多いため、フィクションとしてはともかく、アカデミズムにおいては否定的見解が強い。この項では明治時代の地方官であった村岡素一郎が唱えた桶狭間の戦い直後に入れ替わったという説を主に扱い、その他の説を付記する。 徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。1902年(明治35年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎[注釈 1]が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍[2]を出版して家康の影武者説を唱えた。文学博士で元内閣修史編修官・東京帝国大学文科大学教授の重野安繹が、この著書の序文を記している。 村岡素一郎によれば、「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである」という説を村岡が着想したのは、林羅山の著書[注釈 2]『駿府政事録』の1612年(慶長17年)8月19日の記述である。村岡は以下のように引用している。駿府政事録に云ふ、慶長十七年八月十九日御雑談の内、昔年御幼少之時、有二又右衛門某云者一、錢五貫[注釈 3]、奉レ賣二御所一之時、自二九歳一至二十八九歳一迄、御二座駿府一之由、令レ談給、諸人伺候、衆皆聞レ之云々。公が此の自白の述懐に據れば、公は幼少の時、又右衛門なるものに、錢五貫を以って鬻賣[注釈 4]せられ、九歳より十八九歳迄、駿府に在住せられしと、此比は人の子女を勾引して賣買したることあり、公も此の災厄に罹られたるなり、陪席の左右侍御輩皆之を聽けり ? 村岡素一郎著、『史疑 コ川家康事蹟』14頁。NDLJP:992561/17 「(大意) 『駿府政事録』にはこうある。慶長十七年八月十九日、家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで駿府に居たのだ」と語ったというのだ。家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみな、この話を聞いていたのだ。」 当時、松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代(家康)を駿府に人質として送ろうとしていた。しかし、広忠の継室真喜姫(田原御前)の父である田原城主の戸田康光が今川家と松平家を裏切り、竹千代は織田信秀のもとへ売られた。後に織田信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため(安城合戦)、その信広と交換されて駿府に送られた。その様子を家康が語ったものとされている。 村岡は戸田家が竹千代を売ったことを否定しているという。しかし、康光を始めとする今川家を裏切った戸田一族は今川家に滅ぼされており、否定したという戸田家の人物は不明である。なお、近年になって、アカデミズムの側から戸田家が竹千代を売った事実を否定する見解が出されるようになっているが、結果的に影武者説についても否定することになるため、後述する。 村岡素一郎は序論で、日本の歴史は約300年毎に政機転変して貴・賤の顛倒(上下階級の交代)が行われ、これが歴史の自然法だが、我が皇室は人事転変の外に超越して万古変わらず、国体の尊厳は他邦に比類なき所以と説いた。 その上で、大化の改新で蘇我氏を倒した藤原氏の祖・藤原鎌足、宇多・醍醐朝で異数の抜擢を受けた菅原道真、地下人から太政大臣となり人臣の位を極めた平清盛、鎌倉幕府を開設した源頼朝の覇業を助けて子孫9代の基を築いた北条時政、斯波氏の陪臣より興った織田氏や庶民の出自が明々白々の豊臣氏の例を挙げ、徳川氏は豊臣氏の下層に属する出身ではなく歴然たる三河松平氏の貴公子といわれるが、歴史の自然法から疑惑が生じると論じた。 村岡素一郎は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。
影武者説の発端
影武者説の概要
貴賤顛倒
影武者・世良田二郎三郎元信
Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef