徳川埋蔵金
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徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)は、江戸時代末期の1867年江戸幕府大政奉還に際し、密かに埋蔵したとされる幕府再興のための軍資金である。埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされ、現在も個人やマスメディア等により発掘が試みられているが、発見には至っていない。
埋蔵金について
発端

1868年4月に江戸城無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していた。ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まった[1]

探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗忠順にも及んだ。小栗は奉行職を辞任した後、上野国群馬県群馬郡権田村に隠遁していた。彼が幕府の財政責任者であったことから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来たから誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れた[1]。加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一に関わる刑罰斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みた。

その後、赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義された[2]

幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。

井伊直弼が暗殺された後、軍学者であった林梁によって埋蔵が実施された。

埋蔵された額はおよそ360万 - 400万。この額の根拠は、勝海舟の日記にある「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。

埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。

山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。

小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。

存在の証拠

徳川埋蔵金の存在を示す証拠として以下のようなものが挙げられている[3]

東照権現の黄金像 (明治23年 源次郎の古井戸から出たとされる)

銅製の燈明皿 (明治23年 源次郎の古井戸から出たとされる)

大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)

意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の板 (双永寺の床下から出たとされる)

直径が20メートルもある巨大な石灰の亀(二代目義治が山中で発掘したとされる)

亀と同じ大きさの石灰の鶴(昭和38年に亀の近くで発見したとされる)

萬四目上覚之帳「よろずしめあげちょう」 (源次郎が保管していたとされる)

各地の説

赤城山での発掘が次々と失敗に終わっていく中、一部の人々は赤城山を本当の埋蔵場所を隠すための囮だと考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて持論を展開するうちに各地で埋蔵金伝説が誕生した[4]。以下にその一部を記す。

日光山内(東照宮二荒山神社など、それぞれの論により詳細な場所は異なる)

男体山中禅寺湖明智平(いずれも奥日光)

榛名山妙義山(赤城山を加えて上毛三山と言われる)

備前楯山(足尾銅山の坑道)

上野東照宮久能山東照宮日吉東照宮世良田東照宮など各地の東照宮

このうち、世良田東照宮にはかつて上毛三山になぞらえられた小高い丘が存在している。

都市伝説の一つに童謡かごめかごめ」の歌詞中に埋蔵金の在り処を示すとしているものがある[5]。詳細は「かごめかごめ」の項目を参照。

赤城山にも諸説あり(津久田原・長井小川田・芳ヶ沢・双永寺・年丸橋(小川田橋)説等)。

群馬県昭和村長者久保。

上海[6]

その他の説

他にも徳川埋蔵金については様々な説が出されている。
久能山御用金説
徳川家康が残した軍用金は久能山東照宮に納められたが、神柩を日光へ移す際に江戸城へと運ばれた(久能山御蔵金銀)。そのほとんどは日光東照宮の造営や徳川家光上洛などで使い果たされたとされているが実は裏帳簿により一部が残されて埋蔵金となった。
他家埋蔵金説
江戸幕府は各地に残る大名の埋蔵金伝説をもとに発掘プロジェクトを実施している。結城埋蔵金等、その全ては失敗に終わったとされているが、実は成功したものが幾つかあり、それらをまとめて埋蔵した。
国家予算流用説
第二次世界大戦直後の日本政府がそうであったように、いかに財政難とは言え、破綻していない以上は国家として事業を運営する為の資金は常備されているものである。国家の大事として大老と勘定奉行が画策したのであれば、国家予算の一部を埋蔵して機に備えるということも十分に考えられる。
埋蔵金架空説(埋蔵金非実在説)

もともと幕末期の江戸幕府が大赤字に見舞われていたため埋蔵金にあてがうだけの金銭・蓄財が存在するはずがない、という説である。実際に徳川埋蔵金は多くの発掘計画が各地で行われているが、その殆どが成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されていないことから架空説も根強く存在する。以下にその理由を述べる。

江戸幕府は初代将軍以降、数々の城や寺社の普請、江戸を見舞った数度の大火被害の復興資金などの支出が続いた。5代将軍
綱吉の治世頃には既に財源が枯渇しており[7]、不足分は貯蔵してあった蓄財を切り崩して賄われた(「久能山御蔵金銀」など)が、それもやがて使い切った。農村体型を基本とする江戸幕府の財源はこれらの支出に耐えられず、貨幣改鋳を度々行わなければならないほどの事態に陥っていた[8]。その後、新井白石による正徳の治や、8代将軍吉宗による享保の改革などの倹約令や税収見直し[9]、または田沼意次による重商主義的な改革(「田沼時代」参照)など財政改革が幾度となく実施されたが、それでも江戸幕府の財政難は改善されることはなく、むしろ悪化の一途を辿り、さらに幕末に連発した大地震飢饉により、末期の江戸幕府は困窮の極みにあった[10]


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