徳川光圀
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「源光圀」はこの項目へ転送されています。平安時代の武将については「源光国」をご覧ください。

 凡例徳川 光圀
徳川光圀像(狩野常信画、徳川ミュージアム蔵)
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛永5年6月10日1628年7月11日
死没元禄13年12月6日1701年1月14日
改名長丸、千代松、徳亮、光国、光圀
別名子龍、観之(
日新斎、常山人、率然子、西山、梅里(
水戸光圀、水戸黄門
諡号義公
神号高譲味道根之命
墓所瑞龍山久昌寺義公廟、常磐神社
官位従五位上左衛門督従四位下右近衛権少将、従四位上・右近衛権中将従三位参議権中納言、贈従二位権大納言、贈従一位、贈正一位
主君徳川家綱綱吉
常陸水戸藩
氏族徳川氏水戸徳川家
父母父:徳川頼房、母:谷久子(高瀬局)
養父:三木之次、養母:武佐
兄弟松平頼重、亀丸、光圀、頼元頼隆、頼利、頼雄、頼泰、頼以、房時、雑賀重義大姫
妻御簾中:近衛尋子(泰姫)
側室:弥智(親量院)
松平頼常
養子:綱方綱條、鍋姫
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徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日1701年1月14日〉)は、江戸時代前期の大名常陸水戸藩の第2代藩主。後世の創作における脚色を含めて「水戸黄門」としても知られる[注 1]諡号は「義公」、は「子龍」、は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
概要

藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだ。さらに、徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。

同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、特に江戸時代後期から近代にかけて、白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が形成された。水戸黄門は講談歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(「水戸黄門」参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと考えられるが、実際の光圀は日光鎌倉金沢八景房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来熱海新編鎌倉志参照)を除くと、現在の関東地方の範囲から出た記録はない。

光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のため(「徳川御三家」参照)、頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらしたとの指摘がされている。
生涯水戸黄門神社(義公生誕地)
幼年時代

寛永5年(1628年6月10日水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(現在の茨城県水戸市宮町)にある家臣・三木之次の屋敷で生まれる[2]

母は谷重則[注 2]の娘・久子(高瀬局)。『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。久子が懐妊した際に、父の頼房はまだ御簾中正室)を迎えていなかった。

後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、久子は奥付きの老女養心院の娘で、正式な側室ではなかった。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である松平頼重を懐妊したが、久子の母はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝の方(円理院)も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた。頼房乳母で奥付老女の之次の妻・武佐が頼房の准母英勝院と相談し、密かに江戸麹町の別荘で頼重を出産したという。光圀にも同様に堕胎の命令が出され、光圀は水戸の三木邸で生まれた。

頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承はなく、光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明である。母に勢力がなかったためだろうかと、後年の光圀は語ったようである(『義公遺事』)。

『西山遺文』によれば、幼少時には三木夫妻の子(年齢的には孫)として育てられたと言われ、『玄桐筆記』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることをうかがわせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆記』などの伝記史料には、幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。

寛永9年(1632年)に水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉が水戸へ下向して行われており、3代将軍・徳川家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で家光に拝謁している。
藩主相続まで

寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。この年、伊藤友玄、小野言員、内藤高康の3人が傅役となる。また水戸藩家老職の山野辺義忠の薫陶を受ける[注 3]。だが、少年の頃の光国の言動はいわゆる不良であった。兄(頼重)を差し置いての世子決定が光国の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもした[4]。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている[5][注 4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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