徳島県立城東高等学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度4分21.41秒 東経134度33分32.23秒 / 北緯34.0726139度 東経134.5589528度 / 34.0726139; 134.5589528
徳島県立城東高等学校(とくしまけんりつじょうとうこうとうがっこう、英語: Tokushima Prefectural Joto High School)は、徳島県徳島市中徳島町一丁目にある公立高等学校である。前身は1902年(明治35年)創立の徳島県立高等女学校(略称は徳女)。 徳島県立城東高等学校は1902年(明治35年)徳島県徳島市に徳島県立高等女学校として創立、徳島県の進学高校群である旧総合選抜六校(徳島市立・城南・城北・城ノ内・徳島北、城東)のうちの一校であり、2022年に創立120周年を迎えた伝統校である。 これまでに4万3千人の卒業生を送り出している。当校は伝統と自由に育まれた校風のもとで文武両道を実践している。 徳島県内では高校全体で見ればトップクラスの進学校であり、例年、東京大学や京都大学を始めとする旧帝国大学や、医学部医学科、関関同立などに多数の合格者を出している。2014年度よりSGH(スーパーグローバルハイスクール)に指定された[1]。
概要
沿革
徳島高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
1902年(明治35年)
4月1日 - 「徳島県立高等女学校」が開校[2]。本科(4年制)と技芸専修科(2年制)を設置。
4月28日 - 第1回始業式を挙行。この日を創立記念日と制定。
1903年(明治36年)5月?6月 - 校舎と寄宿舎が完成。
1906年(明治39年)9月11日 - 校旗を制定。
1908年(明治41年)4月1日 - 徳島女子師範学校を併置[3]。
1921年(大正10年)4月1日 - 「徳島県立徳島高等女学校」と改称[4]。
1926年(大正15年)3月29日 - 学則を改正し、修業年限を5ヶ年に改める。
1927年(昭和2年)7月19日 - 生徒徽章を制定。
1931年(昭和6年)
2月7日 - 新運動場が完成。
10月14日 - 弓道場が完成。
1932年(昭和7年)4月9日 - 体育館が完成。
1933年(昭和8年)8月21日 - プールが完成。
1943年(昭和18年)4月1日 - 併設の徳島県女子師範学校が徳島県師範学校(男子師範)と統合の上、官立(国立)移管され徳島師範学校女子部となる。
1945年(昭和20年)
7月4日 - 徳島大空襲により、全校舎を焼失。
8月 - 徳島師範学校女子部が美馬郡江原町へ疎開したことにより、併設を解消。
9月 - 徳島市富田国民学校校舎にて徳島市立高等学校と二部授業を開始。
1946年(昭和21年)6月 - 旧校地に校舎を再建。校舎再建資金を獲得するために演劇部と音楽部が徳島県下各地で巡回公演を行う。
1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)
高等女学校の生徒募集を停止。
新制中学校を併設し(以下・併設中学校)、高等女学校1・2年生修了者を新制中学2・3年生として収容。
併設中学校は暫定的に設置され、新たな生徒募集は行われず、在校生が2・3年生だけであった。
高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校4・5年として在籍。
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「徳島県徳島女子高等学校」が発足。
高等女学校卒業生(5年修了者)、4年修了者の中で希望者はそれぞれ新制高等学校3年生、2年生となる。
併設中学校卒業生(3年修了者)は新制高等学校1年生となる。
併設中学校は在校生が3年生のみ(1946年(昭和21年)4月入学生)のみとなる。
1949年(昭和24年)3月31日 - 併設中学校を廃止。
新制高等学校(男女共学)
1949年(昭和24年)4月1日 - 高校三原則(総合制・学区制・男女共学制)に基づく高等学校再編により、総合制高等学校「徳島県城東高等学校」が発足。
全日制課程2学科(普通科・商業科)と定時制課程2学科(普通科・商業科)を設置。
当時男子校であった徳島第一高等学校や徳島第二高等学校と生徒を入れ替えて男女共学となった。この時、徳島第一高等学校は城南高等学校に、徳島第二高等学校は城北高等学校に改称した。
旧・徳島市立女子高等学校、旧・徳島商業高等学校の生徒も収容。
定時制課程は徳島第二高等学校と徳島商業高校の夜間部が統合されて設置された。
1950年(昭和25年)
3月 - 城東高校としての第1回卒業式を挙行。
4月1日 - 商業科の生徒募集を停止(商業科が城北高等学校に移管されたことによる。ただし在校生が卒業するまで商業科は存続。)
1952年(昭和27年)
3月31日 - 商業科を廃止。
4月1日 - 家庭技芸課程を設置(後に被服科に改称)。校歌・校旗(校章)を制定。
1956年(昭和31年)4月1日 - 「徳島県立城東高等学校」(現校名)に改称(県の後に「立」が加えられる)。
1962年(昭和37年)6月 - 鉄筋コンクリート造3階建ての校舎が完成。
1964年(昭和39年)
2月 - 鉄筋コンクリート造の本館が完成。
8月 - 講堂兼体育館が完成。
1965年(昭和40年)4月1日 - 東邦レーヨンの企業内学校として定時制(昼間二部制)北島分教室を開設。
1968年(昭和43年)
3月 - 鉄筋コンクリート造4階建ての特別教室が完成。
4月 - 定時制(昼間)内町分教室を開設し、衛生看護科を設置(後に内町分校に昇格)。北島分教室を北島分校に昇格させる。
1972年(昭和47年)4月1日 - 徳島市内の普通科4高校[5](城東・城南・徳島北・城北・市立高・城ノ内)で総合選抜入試を開始。