徳山村_(岐阜県)
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とくやまむら
徳山村
廃止日1987年3月31日
廃止理由編入合併
徳山村 →
藤橋村
現在の自治体揖斐川町
廃止時点のデータ
日本
地方中部地方東海地方
都道府県岐阜県
揖斐郡
市町村コード21409-4
面積253.56 km2.
総人口632人
国勢調査、1985年)
隣接自治体揖斐郡藤橋村、同郡坂内村
本巣郡根尾村
福井県大野市今立郡池田町
南条郡今庄町
徳山村役場
所在地501-17
岐阜県揖斐郡徳山村徳山字村平410-3
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分49秒 東経136度28分47秒 / 北緯35.696989度 東経136.479628度 / 35.696989; 136.479628 (徳山村)座標: 北緯35度41分49秒 東経136度28分47秒 / 北緯35.696989度 東経136.479628度 / 35.696989; 136.479628 (徳山村)

特記事項徳山ダム建設に伴い藤橋村へ編入
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徳山村(とくやまむら)は、岐阜県揖斐郡揖斐川上流にあったである。徳山ダム建設のため、村民は1984年昭和59年)に離村を開始。1987年(昭和62年)に藤橋村(現・揖斐川町)に編入合併して廃止された。編入後も残っていた村民も2001年平成13年)までに離村した。

徳山ダムは2008年(平成20年)5月に完成し、門入集落を除く徳山村の可住区域はダム湖(徳山湖)に水没した(詳細は徳山ダム#消えた徳山村を参照)。NHK総合発見ふるさとの宝[1]、NHK総合・BS2ゆるナビ[2]で紹介された。ダム建設中の徳山村を舞台にした映画ふるさと』、廃村離村後、移転地から戻ってきて徳山村で暮らし続けた村民を記録したドキュメンタリー映画水になった村』も制作された。
地理

村の99.3%が森林であり、徳山(本郷)・下開田(しもかいでん)・上開田(かみかいでん)・山手(やまて)・櫨原(はぜはら)・塚・戸入(とにゅう)・門入(かどにゅう)の8つの集落からなっていた。

山:金草岳冠山、若丸山、能郷白山、千回沢山、不動山、笹ヶ峰、美濃俣丸、三周ヶ岳烏帽子山蕎麦粒山、五蛇池山、上谷山

河川:揖斐川本流(東谷)、支流(西谷川または戸入川)

峠:冠山峠、檜尾峠、高倉峠、ホハレ峠、馬坂峠

隣接していた自治体

岐阜県

揖斐郡藤橋村

同郡坂内村

本巣郡根尾村


福井県

大野市

今立郡池田町

南条郡今庄町


集落

揖斐川本流(東谷)沿いの集落のうち、山手、櫨原、塚の3集落を「東谷部落」、支流(西谷川)沿いの2集落を「西谷部落」と称した。
徳山(本郷)
明治中期まで大野郡徳山村。1889年明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字徳山。1897年(明治30年)の揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字徳山となる。なお、大野郡徳山郷から枝郷として漆原・池田・櫨原等が分村したため「本郷」と通称した[3]。徳山村の中心で、徳山村役場、徳山小学校、徳山郵便局、揖斐警察署徳山巡査駐在所、徳山村消防団本部等が置かれた。1947年(昭和22年)7月10日に50戸が焼失する大火が発生。1954年(昭和29年)5月13日にも121戸中118戸が全焼する本郷大火が発生し、災害救助法が適用されている。この2回の大火で徳山村(本郷)に関する古文書類も焼失した。
下開田
明治中期まで池田郡漆原村。志津原(しづはら)とも記された。1609年慶長14年)の検地帳に徳山内漆原村と記されるが後に分村。正保郷帳に初めて池田郡志津原村と記される[3]1875年(明治8年)7月に池田郡池田村と合併して池田郡開田村となる。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字開田の一部。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字開田の一部となる。揖斐川下流に位置したため「下開田」と称した。本郷集落の対岸にあり、鳴瀬橋(徳山橋)で結ばれていた。
上開田
明治中期まで池田郡池田村。1609年(慶長14年)の検地帳に徳山内池田村と記されるが後に分村。正保郷帳に初めて池田郡池田村と記される[3]。1875年(明治8年)7月に池田郡漆原村と合併して池田郡開田村となる。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字開田の一部。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字開田の一部となる。揖斐川上流に位置したため「上開田」と称した。本郷集落の対岸にあり、池田橋で結ばれていた。徳山中学校及び通学困難者向け通年制学生寮「清心寮」が置かれた。
山手
明治中期まで大野郡山手村。1431年永享3年)の徳山家文書に山手の名が現れる。元は徳山村内だったが後に分村独立し、正保郷帳に大野郡山手村と記される[3]。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字山手。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字山手。徳山村役場から集落まで2.32km徳山小学校山手分校が置かれた。
櫨原
明治中期まで大野郡櫨原村。1431年(永享3年)の徳山家文書に櫨原の名が現れる。元は徳山村内だったが後に分村独立し、正保郷帳に至って櫨原村と記される[3]。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字櫨原。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字櫨原。徳山村役場から集落まで5.19 km。徳山小学校櫨原分校及び徳山中学校東谷分校が置かれた。

明治中期まで大野郡塚村。1434年(永享6年)の徳山家文書に塚の名が現れる。元は徳山村内だったが後に分村し、正保郷帳に至って塚村と記される[3]。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字塚。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字塚。徳山村役場から集落まで7.34 km。徳山小学校塚分校が置かれた。
戸入
明治中期まで池田郡戸入村。1434年(永享6年)の徳山家文書に戸入の名が現れる。元は徳山村内だったが後に分村し、正保郷帳に池田郡戸入村と記される[3]。1889年(明治22年)の徳山村成立後は池田郡徳山村大字戸入。揖斐郡設置後は揖斐郡徳山村大字戸入。徳山村役場から集落まで5.80 km。


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