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とくみつ かずお徳光 和夫
2015年撮影
プロフィール
本名コ光 和夫
愛称徳さん
出身地 日本 東京都目黒区
生年月日 (1941-03-10) 1941年3月10日(83歳)
血液型B型
最終学歴立教大学社会学部
所属事務所オフィス ラ・メール
職歴元日本テレビアナウンサー(アナウンス部課長)
活動期間1963年 -
ジャンル情報・報道・バラエティなど
配偶者コ光早苗
著名な家族服部誠一(曽祖父)
コ光壽雄(父)
コ光正行(二男)
ミッツ・マングローブ(甥)
公式サイト公式ホームページ
出演番組・活動
出演中『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』
『路線バスで寄り道の旅』
ほか
出演経歴『アメリカ横断ウルトラクイズ』
『ズームイン!!朝!』
『NNNニュースプラス1』
『THE・サンデー』
『世界ウルルン滞在記』など
その他『24時間テレビ』
日本ドッジボール協会顧問
ソニー・ミュージックアーティスツ顧問
海原会(学校法人海城学園OB会)会長
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ
徳光 和夫(とくみつ かずお、1941年〈昭和16年〉3月10日[注 1] - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、総合司会者。元日本テレビエグゼクティブアナウンサー。本名:コ光 和夫(読み同じ)。
日本ドッジボール協会顧問、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ顧問、日本司会芸能協会顧問、海原会(学校法人海城学園OB会)会長等の肩書きも持つ。
オフィス ラ・メール所属で、ソニー・ミュージックアーティスツと業務提携している。
本名の「コ」は徳の旧字体で初期の日本テレビ『ズームイン!!朝!』のテロップでもこの表記を使っていたが、現在は通常の「徳」を使用している。愛称は、徳さん。プロ野球・読売ジャイアンツの熱烈なファンで、「巨人親父」とも称される。公の場で感涙することが多く(特に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』)、「非常に涙もろい」キャラクターで知られる。番組開始時の挨拶ではフルネームを言わず「徳光です(でございます)。」「徳光め[注 2]にございます。」と言っている[注 3]。
東京都目黒区出身。現在は神奈川県茅ヶ崎市在住。血液型B型。1女2男があり、タレントの徳光正行は次男。ミッツ・マングローブ[注 4]は甥にあたる。 父のコ光壽雄は映画監督として業界の活動を始め、その後日本テレビに開局社員として入社し、1967年には当時赤字経営に苦しんでいた東京12チャンネル(現:テレビ東京)を立て直すべく設立された「科学テレビ協力委員会」の委員として出向した人物[1][注 5]。徳光の戸籍上の生年月日が実際の生年月日と異なるのは、厳格な父が「男児が3月3日、桃の節句の生まれでは格好が悪い」と1週間後で陸軍記念日の10日生まれにしたためである[注 6]。 自身もフリー転身後、『にっぽんの歌』などテレビ東京の番組に出演し、次男の正行も『レディス4』の司会に起用され、親子3代に渡ってテレビ東京に関与することとなった。母は松屋のデパートガールだった。弟は英国伊勢丹元社長のコ光次郎。JRA競馬騎手の福永洋一とは、遠い親戚関係にある[2]。自身が初代司会者を務めた『ズームイン!!朝!』の初日最初のニュースは、前日に起きた福永の落馬事故だった[注 7]。2歳下の妹がいたが、和夫が5歳の時に病気で亡くなっている[3]。 元々は落語家志望で[3]、趣味は野球観戦と駅伝観戦と音楽鑑賞と落語鑑賞。中学時代まではプロ野球は西鉄ライオンズ、特に大下弘のファンだった[4][5]が、私立海城高等学校在学中に、長嶋茂雄が東京六大学野球新記録(当時)となる本塁打を放ち[6]、嬉しさから小躍りしながら仲間と一緒にベースを回る姿を見て感化され「人生の全てを長嶋茂雄に捧げよう」と決意[7]。長嶋がいた立教大学の全学部を受験し、辛うじて社会学部に補欠合格した[6][8]。合格した原因は「ヤマを張って集中的に勉強した日本書紀が、試験に丸々出題されていたから」ということを話している[3]。そしてその後、大学卒業後長嶋が入団した巨人のファンとなる。大学では、最初は「長嶋さんが居た神宮球場で過ごしたい」からという理由で応援団に入るが、ほとんどグラウンドに背を向けての活動だったため、試合を見られないことに不満を感じていたところ、放送研究会の部員がスタンドの最前列でテープレコーダーを持って取材などをしているのを見て、楽しそうと思い、放送研究会に転じる[3][9]。大学の同期に青尾幸、加賀美幸子、村田幸子、土居まさる[10]、後輩に関口宏、古舘伊知郎、久保田光彦、放送研究会の後輩にみのもんたがいる。大学4年の時、就職に悩んでいた時期に土居に相談をし、「お前、アナウンサーになればいいじゃないか」とアドバイスを受けアナウンサーになることを決意する。 大学卒業後の1963年に、日本テレビへ入社。同期入社に青尾幸、今村倫子 主にアナウンサーとしてプロレス中継[注 10]を中心に受け持ち、ドラマ『青春とはなんだ』にラグビー中継のアナウンサー役で出演したり、アニメ『ルパン三世』第73話「花も嵐も泥棒レース」にて、自動車レースを中継するアナウンサー役(本人の役)で声優として出演したこともあった。また、1969年10月から『NTV紅白歌のベストテン』の総合司会を務め、人気を得る。1974年10月から『新・底ぬけ脱線ゲーム』の司会を務める。この頃の徳光は日本テレビ社内でもかなり特殊な存在で、「アナウンス部には週1度しか顔を出さない」「アナウンス部のシフトに入らず、自分でシフトを決めて勝手にやっている」という勤務形態であり、当時は「徳光にはニュース読ますな」が社内の定説だった[11]。 1979年3月から放送を開始した『ズームイン!!朝!』では総合司会を9年間担当。1988年4月からは『NNNニュースプラス1』のメインキャスターを務めた。自身に『プラス1』キャスターとしての白羽の矢が立ったのは「『ニュースステーション』のおかげで、ニュースそのものが難解な言葉を多用するものから、分かりやすいものに変わっていったことに影響されたのではないだろうか」と話し、「『プラス1』の3年間は世界的にも激動の3年間で、人にものを伝える難しさというものを学んだ」とも話している[3]。 1989年9月末に日本テレビを退社し、翌10月よりフリーとなる[9]。『ズームイン』から『プラス1』に担当番組が代わった頃から「俺はバラエティ番組・情報番組に慣れていたからニュースキャスターは合わない」と思うようになり[12][13]、管理職昇進(アナウンス部副部長)の話が挙がることに対し、徳光は数字の管理が苦手で「役職が付けば、今まで全くやったことが無い事務的な仕事もしなければいけなくなるだろうし、自分の管理も満足にできない人が、上に立って他人の管理をすることは出来ない。俺は事務職ではなく、現場で生きていきたい」と思ったことなどがフリー転身のきっかけとなった[14]。 フリーとしての最初の仕事は古巣の日本テレビであり、同年10月1日の夜に生放送された特番『徳光和夫の面白生放送 プロ野球バンザイ!』だった。 1990年以降は『クイズダービー』(TBS)、『徳光のTVコロンブス』(テレビ東京)を皮切りに各局で多くの番組を担当し、さらに結婚式の司会等でも活動する。 2010年からは、初のラジオの生放送レギュラー番組となる『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』(ニッポン放送)が放送開始。当初は約6時間という長丁場を担当し、その後放送時間は2時間40分に縮小されたが、現在も出演中である。 2011年の『24時間テレビ34』では総合司会を勇退し(後任は羽鳥慎一)、当時70歳にして番組史上最高年齢となるチャリティーマラソンのランナーを務めた。
来歴
出生
日本テレビ入社後
フリー転身後