徳丸
町丁
旧前谷津川沿いの谷地形とイオン板橋店
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分32秒 東経139度39分35秒 / 北緯35.77564度 東経139.65978度 / 35.77564; 139.65978
国 日本
都道府県 東京
特別区 板橋区
地域赤塚地域
人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1])
人口35,633 人
世帯数18,818 世帯
面積([2])
1.874348045 km²
人口密度19010.88 人/km²
郵便番号175-0083[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート板橋
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 東京都
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示
徳丸(とくまる)は、東京都板橋区の町名[5][6]。現行行政地名は徳丸一丁目から八丁目。全域で住居表示が実施されている。 板橋区の西部に位置する。北で高島平、東で西台、南で練馬区北町、南西の一部で赤塚新町、西で赤塚及び四葉と隣接する。主に住宅地として利用される。町域南辺を鉄道路線が走るほか、地区内外に比較的整備された道路が縦横に走る東武練馬駅前にはイオン板橋店などの大型商業施設が立地する。 住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、徳丸2-26-10の地点で42万2000円/m2、徳丸3-4-18の地点で49万1000円/m2、徳丸6-27-1の地点で37万5000円/m2となっている[7]。 1869年(明治2年)になると徳丸ヶ原は民間に払い下げられ、豊富な荒川の水資源を頼りに水田として開拓されて、赤塚田圃や徳丸田圃と呼ばれるようになった。このときに赤塚城のため池の水が灌漑用水として利用された。 1870年(明治3年)10月に名主の中村長左衛門
地理
地価
歴史
1870年(明治3年)5月の「明治三年徳丸原絵図」に、四葉村の名主は長左衛門、組頭は久兵衛・庄三郎・弥左衛門・才三郎・新太郎、小前惣代は久四郎・福次カと記され、押印されている。明治10年度(1877?1878)の第九大区第五小区のときの役人は中村長左衛門だったので、おそらく名主の長左衛門がそのまま役人となったのだろう。組頭だった5人の苗字は不明である。
『東京府志料』によると、1872年(明治5年)の四ツ葉村には小字が10ヵ所あり、稲荷前・沖口・雑魚谷(ざっこやつ)・向ヒ口(むかいぐち)・前谷津(まえやつ)・荻・山下・茨蕪(ばらかぶ)・蟹作り(かにづくり)・横手・新橋と言われた。南の方に飛び地が1ヵ所あったという。用水は横手から出る湧き水を引いていたが不足していた。荒川沿いであるから「水損の煩いがある」とされている。当時戸数は43戸、人口250人(男123人、女127人)、稲荷神社が2座(四葉稲荷130坪と合祀前の榎本家の稲荷24坪)、観音堂78坪と薬師堂81坪があったとされる。『板橋区史』資料編4近・現代にも収録されている「四ツ葉村諸留」76(東京大学史料編纂所所蔵)の「1871年(明治4年)11月?1872年(明治5年)5月四ツ葉村諸願訴伺届並びに書上物請書控」によれば、氏子は四ツ葉村に43戸あったという。1932年(昭和7年)ごろには丘上の集落が整い宮前・宮下・大塚原という小字となり、下赤塚村との入会地の小字は仲田・弁財天・深田・菖蒲田・荒川縁となった。
1873年(明治6年)3月の朱引外大小区改正により、四ツ葉村は第9大区5小区に属した。しかし1878年(明治11年)7月の郡区町村編制法により廃止され、四ツ葉村は北豊島郡に属した。『板橋区史』資料編4近・現代にも収録されている「安井新二郎家文書」の「1879年(明治12年)4月?1881年(明治14年)10月徳丸本村外二ヶ村諸上申案綴込」によれば、1880年(明治13年)1月21日には戸数46戸、人口271人(男134人、女137人)と微増している。
実際の徳丸村を設立したのは安井家である。そのため徳丸には安井姓の者が多い。
1871年(明治4年)11月に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入され、1889年(明治22年)に市制・町村制が施行されると、赤塚六ヶ村は合併して赤塚村となり、各村は大字上赤塚、大字下赤塚、大字成増、大字徳丸本、大字徳丸脇、大字四ッ葉となった。1932年(昭和7年)の板橋区の成立時にはそれぞれ上赤塚町、下赤塚町、成増町、徳丸本町、徳丸町、四ッ葉町となった。その後の住居表示実施に伴い、当該地区が板橋区徳丸となった。 2024年(令和6年)3月31日現在(板橋区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目世帯数人口 国勢調査による人口の推移。 人口推移年人口
主な出来事
1979年(昭和54年)7月23日 - 徳丸五丁目郵便局に強盗。80万円を奪った後、床にまいた灯油に放火して逃走[8]。
世帯数と人口
徳丸一丁目4,063世帯6,830人
徳丸二丁目2,585世帯4,249人
徳丸三丁目4,003世帯7,266人
徳丸四丁目2,721世帯5,605人
徳丸五丁目1,099世帯2,458人
徳丸六丁目2,548世帯5,310人
徳丸七丁目859世帯1,804人
徳丸八丁目940世帯2,111人
計18,818世帯35,633人
人口の変遷
1995年(平成7年)[9]29,856
2000年(平成12年)[10]30,892
2005年(平成17年)[11]32,834
2010年(平成22年)[12]33,422
2015年(平成27年)[13]35,169
2020年(令和2年)[14]35,747
世帯数の変遷
Size:41 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef