江戸薩摩藩邸の焼討事件(えどさつまはんていのやきうちじけん)は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、幕末の慶応3年12月25日(1868年1月19日)に江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸[注釈 1]が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけになった[1]。
薩摩藩邸焼討事件とも[2]。 文久3年(1863年)4月、庄内藩は高崎藩、白河藩、中村藩とともに、江戸幕府から江戸市中の警備を命ぜられ、以降、攘夷派の取り締まりに実績を上げていた。この時期、前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は京に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。 慶応2年12月(1867年1月)、水戸浪士の中村勇吉(天狗党残党)、相楽総三、里見某らが乾退助(のちの板垣退助)を頼って江戸に潜伏。当時、江戸築地土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった乾退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、藩主に無断、かつ藩重役にも相談せず独断で彼等を藩邸内に匿う[3][4]。 慶応3年5月21日(太陽暦6月23日)、中岡慎太郎の仲介によって、土佐藩・乾退助と薩摩藩・西郷隆盛の間で締結された薩土討幕の密約では、この浪士らの身柄を土佐藩邸から薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれた[4]。翌5月22日(太陽暦6月24日)に、乾は薩摩藩と締結した密約を山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白。土佐藩の起居を促した。容堂はその勢いに圧される形で、この軍事密約を承認し、退助に軍制改革を命じた。土佐藩は乾を筆頭として軍制改革・近代式練兵を行うことを決定。乾は、5月27日(太陽暦6月29日)、中岡慎太郎らに大坂でベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃 慶応3年9月6日(1867年10月3日)、大監察に復職した乾退助は薩土討幕の密約をもとに藩内で武力討幕論を推し進め、佐々木高行らと藩庁を動かし、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助、安岡覚之助ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。これにより、土佐七郡(全土)の勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。武市瑞山の土佐勤王党を乾退助が事実上引き継ぐこととなる。 慶応3年9月9日(1867年10月6日)、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、退助が江戸の土佐藩邸に勤王派浪士を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、寺村左膳に対し密告を行った。行秀は乾退助が水戸浪士・中村勇吉に宛た書簡の写しを証拠として所有しており、退助の失脚を狙って左膳に密告したものである[5]。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」と言う話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、土佐勤王党の一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は、退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず[6]。
経緯
勤皇派取締りの強化
乾退助土佐藩邸水戸勤皇浪士隠匿事件
薩土討幕の密約「薩土討幕之密約紀念碑」
密約が締結される前段階として京都東山「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)
土佐勤王党員を釈放
左行秀の密告