御手洗_(呉市)
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この項目では、広島県呉市の港町について説明しています。港湾施設としての御手洗については「御手洗港」をご覧ください。
御手洗の町並み.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 御手洗

御手洗(みたらい)は、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島(広島県呉市)の港町1994年(平成6年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定された(全国で38番目の選定)。 
地理

瀬戸内海に連なる芸予諸島の一つ、大崎下島の東端に位置する港町である。御手洗港の周りを広島県道355号大崎下島循環線が通り、その背後に向かって町屋が広がる。

北西方向に大長地区がある。東側が愛媛県今治市岡村島になり、安芸灘オレンジラインによって結ばれている。また呉市本土は安芸灘とびしま海道で結ばれているため、本州とは陸続きであると言える。

豊田郡豊町御手洗。瀬戸内海国立公園内に位置する。御手洗の位置御手洗付近の空中写真。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。(1981年撮影)

沿革
近世まで

「御手洗」の名の由来はいくつか伝承として残っている。御手洗いの井戸

神功皇后三韓征伐の際にこの地で手を洗った。現在天満宮にある御手洗の井戸は元々は神功皇后の御手洗井戸という伝承だった[1][2]

菅原道真昌泰4年(901年)大宰府に左遷されたとき、この地に船を着け天神山の麓で手を洗い口をすすぎお祈りした。その手を洗った井戸は元々は神功皇后の伝承が主流だったが、のちに菅原道真の伝承が主流となった。その場所は天満宮として祀られ、その井戸が「菅公手洗いの井戸」として現存する[1][2]

平清盛が上洛のときにこの地付近で嵐に遭遇した。清盛は手を洗い観音様に手を合わせたところ風波は止んだ。のち清盛はこれを感謝し、草庵を立て行基作の十一面観音を安置し、この地を御手洗と命名した。その草庵は満舟寺として現存する[3]

中世、御手洗は港ではなく民家すらなかった[4]が、なんらかの軍事的な拠点があったと推定されている。この島はこの頃「下島(あるいは御手洗島)」とよばれ伊予国三島領(大山祇神社領)であった[5]。伊予国河野氏に属していた来島村上氏(村上水軍)はこの地にあった「海関」で警護についていたという[6]。室町時代後半に小早川氏がこの島を掌握するようになって以降、安芸国側となっていった[5]戦国時代中期、芸予諸島を掌握しようとした周防国大内氏が東から入ってきて、御手洗沖で大山祇神社大祝氏と幾度か合戦を起こしている[6]天正13年(1585年)四国攻めの際には加藤清正がこの地に前線基地を設けたと伝承に残り、その石垣が現存する[6]
交易港の成立御手洗上関津和地鹿老渡三之瀬忠海布刈瀬戸鼻栗弓削岩城島鞆近世における御手洗周辺の地乗りおよび沖乗りの港[7]。赤が沖乗り、緑が地乗り、黄が共通。赤が御手洗地区。満潮時には北西(下矢印)に、干潮時には南東(上矢印)に潮が流れる[7]
廻船

古代において政府は、太宰府そしてその先の大陸を結ぶ交易ルートとして、更に荘園からの年貢や租税の運搬ルートとして、瀬戸内海に航路を作り港を整備した[8]。当時の和船漕き中心であったため、“地乗り”つまり陸沿いルートで港が整備された[8][7]。交易ルートが確立すると海賊も横行し[8]、時が経つと水軍が創設され戦も起こった。

江戸時代にはいり泰平の世になると、危険を避けるための地乗りから、瀬戸内海中央部を航行する“沖乗り”ルートが開発されていった[4]。ただ当時の和船は一枚帆で追い風をはらんで更に潮の流れを利用して航行する構造であったため、暴風雨を避け順風を待つ「風待ちの港」上げ潮や下げ潮を待つ「潮待ちの港」が必要であった[8]

元々この島の主要港は大長(現在の豊町大長)であったが、大型廻船が寄港するには不向きな港であった。御手洗は寛永年間(1624年から1644年)において農耕地であり家屋敷は存在していなかった[4]。そこへ風待ち潮待ちとして絶好の地である御手洗に船が寄港するようになる[4]。当初は大長村の民が野菜や水などを売っていたが次第に拡大したため村民は広島藩に“町割嘆願”を出すと、寛文6年(1666年)藩はこれを許可し御手洗港が整備されていった[4]。「港町」御手洗の歴史はここから始まる[9]
発展

寛文12年(1672年)、西廻海運、つまり日本海から瀬戸内海をまわり大阪に至る海運ルートが確立した[8]。これにより御手洗は沖乗り航路の潮待ち港として北前船など廻船が寄港するようになる[1][8][4]。さらに藩はここと宮島・尾道の三港のみ他国米の取引を認可したため、広島での米取引の重要拠点となっていく[10]。町は18世紀ごろから急速に発展し、狭い土地であったため数度に渡り埋め立てが行われ港は拡大していき、文政2年(1819年)には“中国第一の港”と自負するほどにまでになっている[7][1][8][4][11]。当時の寄港船はその他にも、幕府の船や参勤交代の船、オランダ・中国などの外国人や琉球国王の船など、多種多様であった[4]


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