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御手杵(おてぎね)または御手杵の槍(おてぎねのやり)[1]は、「天下三槍」と呼ばれた名槍の1つ。室町時代に下総国結城の大名・結城晴朝が作らせ、その養嗣子・結城秀康(実父・徳川家康)に伝わり、秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継いだ。駿河国嶋田の刀工、五条義助が鍛えた大身槍である。左より、レプリカ穂先、手杵形の黒熊毛鞘(馬印)、白鞘(比企総合研究センター) 切先から石突までの拵えを含めた全長は約3.8m。槍身は穂(刃長)4尺6寸(138cm)、茎まであわせて全長7尺1寸(215cm)と桁外れの大きさで、これだけで大太刀や長巻以上である(ただし穂先の断面は正三角形で、あくまでも突くための武器である)。実見した本阿弥光遜によれば、刻まれた樋が「谷のような深い溝」であり驚嘆したという。現代の工作機械による切削と違い、手作業での鍛造による成型であり、極めて高い技量を物語る。 鞘は細長く杵のような形であり、そこからこの名がついたという。そもそも古い時代の杵とは現代では千本杵と呼ばれるもので、単純に長い棒のことであった。後の時代には、握りやすいよう中央をくぼませて両端が膨らんだ形の手杵が考案されている。この手杵の形を模したものが後の馬印用の鞘である。 下総国結城の大名・結城晴朝が作らせ、その養嗣子・結城秀康(実父は徳川家康だが、羽柴秀吉の養子となった後に結城家に養子となる)に伝わる。 さらに秀康の五男で結城氏の名跡を継いだ直基の子孫、松平大和守家(前橋・川越松平家)が受け継いだ。同家の象徴として、その名にちなんだ手杵の形をした巨大な鞘が作られ、馬印として参勤交代では家格を表す爪折傘と共に藩主の乗り物の脇にあった。熊毛で覆われた高さ5尺(150cm)、直径1尺5寸(45cm)の大きさ、並はずれた重さであり鞘の重量は6貫目(22.5kg)あったと伝わる。道中で雨が降ると水を吸って10貫目(37.5kg)を越え、普通の人間にとっては運ぶことも大変だったといわれる。 松平家には、御手杵の鞘を抜くと雪が降るという伝承があった。 江戸時代末期の松平斉省は将軍家斉の二十四男で、大和守家へ養子縁組し世子となった。縁組時の将軍家よりの拝領品の一つに白熊皮があり、天保年間にそれを仕立て直して御手杵鞘と同形の杵形白熊毛鞘を作り、江戸城登城の際の行列の斉省専用の馬印とした。ただし、斉省が早世したため、3年間しか使用されていない。短期間ではあるものの、この時期の武鑑や行列絵巻などに描かれている。諸大名家でも白熊毛槍鞘を所持した例は見られるが、多くの場合はツキノワグマの首元の白毛を集めて加工された(なお、どちらもヤク毛を加工した白熊(はぐま)とは別物である)。 江戸時代中に「西の日本号、東の御手杵」と並び称され、いつしかそれに蜻蛉切が入って天下三名槍と呼ばれるようになった。
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