御匣殿_(西園寺公顕女)
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御匣殿
絵本『新曲』(江戸時代前期)より御匣殿。明星大学所蔵。
続柄尊良親王

出生不明(1300年代初頭ごろ?)

死去元弘元年/元徳3年(1331年)以前

埋葬不明(伝・京都市左京区尊良親王墓)
配偶者尊良親王後醍醐天皇第一皇子)
子女男子(守永親王?)
家名藤原北家閑院流西園寺家
父親西園寺公顕
役職中宮御匣殿後醍醐天皇中宮西園寺禧子の最高幹部の一人)
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御匣殿(みくしげどの)は、鎌倉時代後期の高級官僚。右大臣西園寺公顕の娘。叔母で後醍醐天皇中宮である西園寺禧子の腹心の一人で、女房三役の一つ中宮御匣殿(中宮らの装束の裁縫などを司る長官)を務めた。禧子崩御後の女院号が後京極院であるため、御匣殿も後世には後京極院御匣(ごきょうごくいん の みくしげ)とも呼ばれる[1]。また、後醍醐天皇第一皇子の尊良親王の妃で、男子(一説に守永親王)をもうけた。元弘の乱1331年 - 1333年)以前に死去。

歴史的な生涯は不明な点が多いが、軍記物語太平記』(1370年ごろ完成)では、尊良親王との恋愛物語が描かれた。この伝説によれば、尊良は学問にも和歌にも秀でた高貴な美青年であったが、次期皇太子位を巡る政争に敗れて気鬱になり、詩歌や管弦で心を慰めて、引きこもりがちになった。そして、現実の女性への興味を失って、洞院左大将(一説に洞院公賢)から貰った『源氏物語』の絵の中に描かれた美女に、恋い焦がれるようになってしまった(二次元コンプレックス[注釈 1])。

ところが、尊良はあるとき絵の美人にそっくりな現実の美女を発見し、叔父で歌人の二条為冬の手引もあって、それが御匣殿であることを知った。言い寄る尊良に、はじめ御匣殿は乗り気ではなく、徳大寺左大将(一説に徳大寺公清)という婚約者が既にいたこともあって、尊良につれない態度を取った。しかし、尊良は千通もの恋文を御匣殿に送ったので、御匣殿の側でも次第に心を開くようになった。だが、ある日、政治学の講義を受けた尊良は、中国の名君の太宗は、既に婚約者がいる女性を無理強いして後宮に入れることは決してなかった、という逸話を聞き、自分の行為に恥じ入った。そして心が折れて、恋文を出すのを止めてしまい、1人悩み苦しむようになった。徳大寺左大将は、尊良の惨状を見るに見かねて、御匣殿との婚約を破棄し、恋路を尊良に譲った。晴れて公認の仲になった御匣殿と尊良は、たちまち仲睦まじい夫婦になった、と描かれる。

また、後半では、鎌倉幕府との戦い(元弘の乱)の中で、土佐国高知県)に流された尊良を追って、御匣殿が波瀾万丈の旅をする冒険が描かれる。建武の新政で夫婦再会できた幸せも束の間、数年後に夫が金ヶ崎の戦いで敗死すると、御匣殿は嘆きのあまり数十日のうちに衰弱死したという。しかし、実際には御匣殿は元弘の乱前に死去しているので、この後半部分は完全な虚構である。ただ、おそらく史実でも御匣殿と尊良は円満な夫婦で、それが物語という誇張的表現で反映されたのではないか、という推測もある。尊良親王らを主祭神とする金崎宮福井県敦賀市)は、別名を「恋の宮」と言い、『太平記』の御匣殿との恋愛物語によって、尊良は「睦び和合の神様」として祀られている。

さらに、『太平記』の恋愛譚は、室町時代から江戸時代初頭にかけて流行した幸若舞の題材の一つになり、『新曲』という作品が作られた。江戸時代前期には、『新曲』の場面を描いた絵本や扇なども存在した。
生涯絵本『新曲』(江戸時代前期)より御匣殿。明星大学所蔵。『絵本太平記』剣巻(明治16年(1883年))より尊良親王。小林?湖画。

鎌倉時代末期、右大臣西園寺公顕の第五女として誕生(『尊卑分脈』)[1]。のちの主君となる西園寺禧子は、叔母に当たる。

元応元年8月7日1319年9月21日)、後醍醐天皇の正妃である禧子が中宮に冊立された[4]。これに伴い、正確な時期は不明だが、中宮御匣殿に補任される(『尊卑分脈』・『増鏡』「むら時雨」)[1][5]。御匣殿とは、裁縫などを司る部署およびその別当(長官)のことである[6]

中宮に仕える女房(上級女官)である「宮の女房」の中でも、中宮宣旨・中宮御匣殿・中宮内侍の三役は特に最高幹部とされる高級官僚である[7]。宣旨が「宮の女房」の顔であるのに対し、御匣殿は実務上で采配を振ることが多い[8]。三役の筆頭は宣旨で御匣殿はそれに次ぐが、11世紀後半には中宮御匣殿の方が地位が上になったという説もあり[9]、いずれにせよ御匣殿は禧子の部下の中でも一、二を争う重臣だった。なお、同僚の最高幹部のうち、中宮宣旨は二条派の有力歌人の二条藤子懐良親王母)[10]、中宮内侍は同じく歌人の阿野廉子後村上天皇らの母)である[11]

やがて、後醍醐天皇の第一皇子である尊良親王と結ばれた[1][5]。尊良は宮廷中の女官が色めき立つ絶世の美男子と言われ(『増鏡』「春の別れ」「久米のさら山」)[12]、両親の二条為子・後醍醐ともに二条派を代表する大歌人だけあって、和歌の才にも恵まれていた[13]。馴れ初めや交際が始まった時期は不明だが、軍記物語太平記』の伝説(#『太平記』)によれば、次期皇太子の座を巡る政争に敗れて傷心の尊良に見初められたという[14]。仮にもしこの伝説を鵜呑みにするなら、尊良が量仁親王(のちの光厳天皇)に敗れた嘉暦元年(1326年)かそれ以降のことである(「書状切」鶴見大学図書館所蔵)[15]

御匣殿の方が若干年上の夫婦だったとも考えられる。尊良は徳治年間(1306年 - 1308年)の生まれと推測され、御匣殿は年齢不明だが、同僚の二条藤子が1300年かそれ以前の生まれで、阿野廉子が正安3年(1301年)の生まれだから、仮に御匣殿を廉子と同年齢とすれば、尊良より5歳以上年長となる。


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