御三卿
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

公卿の「三卿」とは異なります。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「卿」は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)

一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)

清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)

御三卿は大名としてを形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした(後述)。御三卿は明治維新後に徳川宗家から独立した家となり、近代には華族となった。
沿革

御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、この時は御両典甲府家館林家)の例に倣い[1]、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ[2]。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った[2][注 1]。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際、一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。

御三卿は江戸時代を通して将軍家の身内として扱われたが、1868年明治元年)5月、田安・一橋両家が独立した藩として新政府より認められた(維新立藩[3][注 2]1884年(明治17年)の華族令により、3家はそれぞれ伯爵叙爵した[注 3]

「御三卿」の呼び名の由来は、当主が公卿である従三位に昇ることからとする説と[4]八省長官)に任ぜられる例であったためとする説がある[注 4]
位置付け

御三卿の創設理由については、徳川吉宗が、将軍家御三家の血縁関係が当時すでに薄くなっていたことを鑑みて、自身の血筋をもって将軍家を継続させていくために定めた[5]、あるいは御三家の勢力を抑えるために興したとする解釈が従来行われてきた[2]。しかし、御三卿は屋敷・賄料(経費)・家臣のいずれをも幕府から与えられており、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍家の身内にとどまるものだった[3][5][6]徳川慶喜に一橋家時代から仕えた渋沢栄一が「三卿の家は起立の初には、必ずしも其主を常置すべきものとは定まらず、唯将軍家の子弟の養はるべき家なき間、据ゑ置かるべき設なるが如し」と説くように[7]、御三卿は、適当な養家となる大名家が現れるまでの間、将軍の庶子を待機させておく仕組みとして始まり、将軍家の「部屋住み」というのが実態であったとみなせ[3][6]、御三卿を大名のうちに数えない解釈もある[8]

そのため、御三卿には子による家督相続で家を永続させるという前提がなく[3][5]、当主(屋敷の主)本人やその嫡子が養子となって御三家や越前家を相続した例がある[9]。また、当主の死去および養家への転出によって跡継ぎが存在しない事態が発生しても、その屋敷や領地、家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」(あけやしき)の措置がとられ[1][2][注 5]、将軍に新たな庶子が生まれた場合、明屋敷の家を相続させた[12][注 6]

幕末期には、御三家の庶子や隠居した当主が御三卿を相続するなど、当初の性格が変化する部分もあったが[1]、田安家から越前家に入った松平春嶽が著書『幕儀参考』において「三卿ハ、タトエハ将軍ノ庶子ヲシテ本丸ニ置クヘキヲ、第ヲ賜ヒテ他ニ住セシム、ユヱニ、将軍ノ厄介ト見倣シテ可ナリト云フヘシ」と記し[2][14][注 7]、水戸家から一橋家に入った徳川慶喜も安政の大獄で隠居謹慎を命じられた際に「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたように[16]、御三卿出身者が自らを部屋住みと認識していたことがうかがえる。
格式・待遇

御三卿の格式尾張家紀州家に準じるものとされた[2]元服すると従三位に叙され、八省の卿もしくは右衛門督の官職と権中将を兼任し[1]、家督相続後は参議となり、長寿に達すると権中納言従二位権大納言へ昇進した[1][2][17][注 8]。当主と嫡子は徳川の苗字本姓源氏)の使用を許され(ただし庶子は「松平」を用いる)[1]、参議に任じると田安・一橋・清水を号した[2][注 9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef