得珍保(とくちん の ほ[1])は日本の中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現・東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園である。保内の今堀日吉神社に保蔵されていた文書によって座商人たちの商業活動が判明している数少ない例であり、後の近江商人につながる中世後期商人たちの拠点となった荘園でもある。また惣結合(郷村の自治結合)が発達した地としても有名。目次 保(ほ、ほう)とは元来、律令制における行政単位(国・郡・里)が平安時代中期(11世紀頃)に崩壊する中、国衙領が再編され、郷(霊亀元年(715年)に里から改称)や名(別名)と並ぶ行政単位となったものである。未開墾地の開発申請に応じて、国守が認可を与えた荘園を指し、開発申請者が保司に補任された。 「得珍保」の名は比叡山延暦寺の僧であった得珍
1 得珍保の成立と惣結合
2 保内商人の活動
2.1 保内商人の成立
2.2 他の座商人との対立
2.3 保内商人の終焉
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
得珍保の成立と惣結合
弘和3年(1383年=永徳3年)付の「今堀郷結鎮頭定書案」は今堀十禅師権現(今堀日吉神社)の宮座行事を規定したものであるが、文末には「仍衆儀之評定如斯(よって衆議の評定かくのごとし)」とあり、この定書が宮座の衆議で決定されたことが分かる。しかし、中人(ちゅうにん)・間人(もうと)などと称された農民は宮座に参加することはできたものの3歳年下の扱いを受けるなどの差別もあった。座の閉鎖性はこれに限らず、旅人を村内に留めることを禁止したり、養子に関わる様々な規程を設けるなどの規制もたびたび掟書で定められている。延徳元年(1489年)の「今堀地下掟書案」20箇条には、身請人のいない他村人の滞留禁止、森林伐採の禁止、犬の飼育禁止[6]、村の生活規範など、風紀の規制が細かく定められていた[7]。今堀惣の掟の中で15世紀の早い段階のものは宮座加入金の納付や郷民の序列など、今堀日吉神社の祭祀に関わる規程が大きな比重を占めていたが、16世紀に入る頃には惣寄合への出席の義務、森林伐採、肥料の確保といった現実的な問題に関する処罰規定が前面に打ち出されるようになっていった[8]。 得珍保各郷の住民は元々農民が主であったが、東山道・東海道に接するという立地の良さから、古くより商業活動にも従事し、御服座・紙座・塩相物座などの座を結成した。14世紀前半頃までには下四郷7箇村を中心に保内商人(野々郷商人、野々川商人とも)が成立したと見られる[9]。下四郷は畑作地域で上四郷に比べ水利が悪く、水田化が遅れたことも、下四郷の者が商業に従事するきっかけとなった[10]。彼らは琵琶湖西へ出て九里半街道
保内商人の活動
保内商人の成立
中世の座はそもそも排他的な特徴を有していたが、保内商人たちも小幡・石塔・沓掛など近隣郷の商人との連合して、四本商人(しほんしょうにん)あるいは山越衆中(やまこししゅうちゅう)と称される集団を形成し、他の琵琶湖周辺の座商人と対決していく。大永7年(1527年)には保内と同様に、四本商人内でも厳しい商業倫理を定めた掟書が作成され[14]、団結を強めていたことが分かる。初期には売り場となる市の営業独占、戦国時代には商品を運ぶ交通路独占を狙って、他商人との闘争を繰り返し、それを本所の延暦寺や近江守護の佐々木氏(六角氏)に訴えた裁判記録も多く残されている。