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従四位(じゅしい)とは、日本の位階および神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。 律令制下において従四位は上下に分けられ、勲等では勲四等に相当し、官位相当では従四位上が太政官の左右大弁、従四位下が職における大夫、近衛府の中将、検非違使別当、蔵人頭、京職の大夫など朝廷内の行政を司る京官の長官ないし次官相当の官職がこの位階に相当していた。また従四位は議政官である参議に任官しうる位階であり、任官された場合には公卿に列することができた。 従四位下以上、正四位上の有位者で公卿に列していないものについては、その者の敬称は氏および諱の下に朝臣を付ける、名乗り朝臣が基本である。例として「細川右京大夫従四位下源勝元朝臣」など。 五位および四位を通貴、三位以上を貴とする律令制下においては、五位には文武官が功労によって昇り得たが、そこから四位に進めるのは特定の門閥貴族に限定され、それ以外の者は特別な功労を上げた者だけが例外的に四位に上れることになっていた。特に神亀5年3月28日(728年5月11日)の格によって外位に振り分けられた氏族は四位以上に昇進することは事実上不可能になった[1]。 その後は藤原氏傍系にあたる者や非藤原氏の中級貴族に多かった。武門の棟梁である清和源氏、桓武平氏が従五位下を初叙とし正四位を以って極位とされた時代にあっては、嫡流でもいくばくかの武勲がなければ昇ることがなかった。 しかし、鎌倉時代以降となると鎌倉幕府成立以降、実力をつけて次々に政敵駆逐を果たした北条氏が幕府の執権職を掌握して以降は、北条氏の嫡流たる得宗が正四位上まで昇るようになり、北条氏一門や有力御家人が従四位下などの官位に昇るようになった。さらに、室町時代以降となると有力な守護大名も叙せられるようになっていった。特に三管領四職を務める足利一門や有力守護、或いは名門たる守護の家柄が従四位下に叙せられた。 戦国時代に入ると、そもそもは三管領細川氏の家臣で守護代の家柄であった三好氏が幕府相伴衆に列し従四位下に叙せられたのに伴い、その家臣である松永久秀も主家同様に従四位下に昇るなど家柄や身分によらず実力に応じた除目も行われるようになった。 室町幕府を滅ぼし天下人を目前に控えて横死した織田信長の後継として、豊臣秀吉が天下人となると、秀吉は関白に昇り、徳川家康や前田利家などの重臣が二位・三位に叙せられる、従四位はその嫡子をはじめ子弟の位階として発令されるようになる。
解説